教皇ベネディクト十六世の74回目の一般謁見演説 トルコ司牧訪問を振り返って

12月6日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の74回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、ラツィオ州の信者を初めとしたイタリアのさまざまな町か […]

12月6日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の74回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、ラツィオ州の信者を初めとしたイタリアのさまざまな町から来た信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで11月28日(火)から12月1日(金)まで行ったトルコへの司牧訪問を振り返る講話を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、コリントの信徒への手紙一12章12-13節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 すべての司牧訪問後の慣例に従って、この一般謁見の中で、わたしは先週の火曜日から金曜日に行ったトルコ訪問のさまざまな歩みを振り返りたいと思います。ご存知のように、この訪問はさまざまな意味で困難なものに思われました。しかし、神はこの訪問の初めからともに歩んでくださいました。こうして訪問をつつがなく終えることができました。ですから、祈りをもってこの訪問を準備し、ともに歩んでくださるように皆様にお願いしたように、今わたしは皆様に、この訪問が実施され終了したことを、わたしとともに主に感謝してくださるようお願いします。
 わたしたちの兄弟である東方教会との関係にとって、また、イスラームの人びととの対話にとって、この訪問が実りをもたらすことを、主に委ねたいと思います。
 まずわたしはトルコ共和国の大統領、首相、そしてその他の政府関係者の皆様に、あらためて心から御礼申し上げなければならないと思います。このかたがたはわたしを丁重に歓迎し、万事が最高のかたちで進行するために必要な条件を整えてくださったからです。
 トルコのカトリック教会の司教とその協力者の皆様に、彼らがしてくださったすべてのことについて、兄弟として感謝申し上げます。
 公邸にわたしをご招待くださったバルトロマイ一世総主教、またメスロブ二世アルメニア教会公主教、モル・フィルクシノス・シリア正教会府主教、そしてその他の宗教の代表者の皆様に、特別に感謝申し上げます。
 訪問の間中、わたしは、わたしの敬愛すべき先任者である神のしもべパウロ六世とヨハネ・パウロ二世が霊的に支えてくださっていることを感じました。二人とも記念すべきトルコ訪問を行っておられるからです。また何よりもヨハネ二十三世が支えてくださっていることを感じました。ヨハネ二十三世は1935年から1944年までこの高貴な国トルコの教皇使節を務め、多くの愛と敬愛の記憶を残しました。
 第二バチカン公会議が教会について示した展望を思い起こしながら(『教会憲章』14-16参照)、わたしは教皇の司牧訪問も、「同心円」において行われる教皇の使命の遂行に役立つものだといいたいと思います。この円の中心で、ペトロの後継者はカトリック信者の信仰を強めます。ペトロの後継者は中間の円の中で、他のキリスト信者と出会います。ペトロの後継者はいちばん外側の円の中で、キリスト信者でない人と全人類に呼びかけるのです。
 トルコ訪問の第一日は、いちばん大きな、第三の円の領域で行われました。わたしはトルコ政府の首相、大統領、宗教省大臣と会い、宗教省大臣に向けて最初の演説を行いました。わたしは「トルコの父」ムスタファ・ケマル・アタテュルクの霊廟を訪問した後、アンカラの教皇庁大使館で外交使節団にお話しすることができました。
 この多くの会見は今回の訪問の重要な部分をなすものでした。それは、トルコが大多数はイスラーム教徒によって占められる国でありながら、国家の世俗性を定めた憲法によって統治されていることに特に基づきます。ですからトルコは、現代世界が直面するさまざまな大問題を象徴する国です。一方で、神の存在と、宗教的信仰のもつ公共的な意味を再発見しなければなりません。他方で、信教の表現の自由が保障されなければなりません。この信教の表現は、原理主義に変質することもなければ、いかなる形の暴力をもきっぱりと拒絶することができなければなりません。
 それゆえわたしは、イスラーム教徒とイスラーム文明に対するわたしの尊敬の念をあらためて表明する適切な機会をもつことができました。同時にわたしは、キリスト教徒とイスラーム教徒が協力して、人間と生命と平和と正義のために取り組むことの重要性を強調することができました。またわたしは、文明の領域と宗教の領域の区別には意味があること、国家は市民と宗教団体に現実の礼拝の自由を保障しなければならないことをあらためて確認しました。
 諸宗教対話の分野では、神の摂理により、今回の訪問の終わり近くに、わたしは、当初予定していなかったものの、きわめて重要な意味をもつことになる行事を行うことができました。すなわち、有名なイスタンブールのブルー・モスクの訪問です。この祈りの場所で数分間立ち止まって黙想しながら、わたしは天と地の唯一の主であり、全人類の憐れみ深い父であるかたに向かいました。すべての信仰者が、神に造られたものであることを認め、真の意味での兄弟愛をあかしすることができますように。
 第二日はエフェソに行きました。このエフェソで、わたしは、カトリック信者の共同体と直接触れることによって、自分が今回の訪問の「円」の中心にいるのがすぐにわかりました。実際、エフェソには、「サヨナキドリ(ナイチンゲール)の丘」と呼ばれる、エーゲ海を望むすばらしい場所に、巡礼所である「マリアの家」があります。この「マリアの家」は、小さな家の周りに建てられた古い小さな聖堂です。古代の伝承によれば、この小さな家は、使徒ヨハネが、おとめマリアとともにエフェソに来た後、マリアのために建てたものです。イエスは使徒ヨハネをマリアに、マリアを使徒ヨハネに委ねました。十字架上で死ぬ前に、イエスはマリアに向かってこういわれたからです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。またヨハネに向かってこういわれました。「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19・26-27)。
 考古学的調査の示すところでは、この場所では、はるか昔からマリアへの崇敬が行われていました。この地はイスラーム教徒にもよく知られたところです。イスラーム教徒はマリアを崇敬するためによくここを訪れます。彼らはマリアを「メイレム・アナ」すなわち「母マリア」と呼んでいるからです。聖堂に隣接した庭で、わたしは、近くにあるイズミルの町やトルコの他の地域、さらに外国から来た信者のかたがたとともにミサをささげました。わたしたちはこの「マリアの家」で、自分たちがほんとうに「自分の家」にいるのを感じました。そしてこの平和な場所で、聖地と全世界の平和のために祈りました。このミサの中で、わたしはアンドレア・サントロ司祭を思い起こしたいと思いました。アンドレア・サントロ司祭は、その血をもってトルコの地で福音をあかしした、ローマの司祭です。
 中間の「円」、すなわちエキュメニカルな関係の円は、今回の訪問の中心的な部分をなすものでした。この中心的な部分は、11月30日の聖アンデレの祝日に行われました。聖アンデレの記念は、ペトロの後継者であるローマの司教と、コンスタンチノープルの世界総主教の兄弟としての関係を強めるための理想的な背景となるものでした。コンスタンチノープル教会は、伝承によれば、シモン・ペトロの兄弟である使徒聖アンデレによって創立されたものだからです。アテナゴラス総主教と会見したパウロ六世と、アテナゴラス総主教の後継者のディミトリオス一世によって迎えられたヨハネ・パウロ二世の足跡に従いながら、わたしはバルトロマイ一世とともに、この大きな象徴的意味をもつ会見をあらためて行いました。こうしてわたしたちは、カトリック教会と正教会の完全な一致の再建に向けて歩み続けるという、相互の使命を確認しました。
 この堅い意向を承認するために、わたしはバルトロマイ一世世界総主教とともに「共同宣言」に署名しました。この「共同宣言」は、この一致への歩みのさらなる段階となるものです。
 この署名が聖アンデレの祝日の荘厳な典礼の終わりに行われたのはきわめて意義深いことでした。わたしもこの典礼に臨席しました。典礼は、使徒ペトロの後継者であるローマ司教と、使徒アンデレの後継者であるコンスタンチノープル総主教の二人による祝福で締めくくられました。このようにしてわたしたちは、あらゆるエキュメニカルな努力の基盤にあるのは、常に祈りであり、聖霊を絶えず祈り求めることだということを示しました。
 このエキュメニカルな領域において、わたしはイスタンブールで、アルメニア使徒教会の公主教メスロブ二世と、シリア正教会府主教を訪問できたことをうれしく思います。これに関連して、わたしはトルコの首席ラビと会見を行うことができたことも喜ばしく思います。
 わたしの訪問は、ローマに帰る前に、「円」の中心に戻ることによって締めくくられました。すなわち、イスタンブールのラテン典礼の聖霊司教座聖堂において、カトリック共同体に属するすべての典礼の人びとが参加して行われた集会です。このミサには世界総主教、アルメニア教会公主教、シリア正教会府主教、またプロテスタント諸教会の代表者も臨席しました。つまり、伝統、典礼、言語を異にするすべてのキリスト信者が集まって祈ったのです。「生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7・38)ことを信じる者に約束されたキリストのことばと、一つのからだに結ばれた多くの部分というたとえ(一コリント12・12-13参照)によって慰められながら、わたしたちは聖霊降臨をあらためて経験しました。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしは、神への感謝に心を満たされながら、また、愛するトルコに住む人びとへの心からの愛情と尊敬の念を覚えながら、バチカンに戻ってまいりました。わたしはトルコの人びとがわたしを歓迎し、理解してくださったのを感じたからです。わたしの訪問が日常生活を普通に送る上でさまざまな妨げとならざるをえなかったにもかかわらず、トルコの人びとが好意と暖かい心をもってわたしを包んでくださったことは、わたしの心に忘れがたく残っています。ですからわたしは祈らずにはいられません。憐れみ深い全能の神の助けによって、トルコ国民、トルコの政治指導者、そして諸宗教の代表者がともに平和な未来を築いていきますように。こうしてトルコが西洋と東洋の友好と親密な協力関係の「架け橋」となることができますように。
 さらに祈りたいと思います。至聖なるマリアの執り成しによって、聖霊がこの司牧訪問から豊かな実りをもたらしますように。そしてキリストが立てた教会の宣教を全世界で力づけてくださいますように。それはわたしたちがすべての民に真理と平和と愛の福音を告げ知らせることができるためです。

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