教皇ベネディクト十六世の2006年12月10日の「お告げの祈り」のことば 神の家としての教会を築く

教皇ベネディクト十六世は、待降節第二主日である12月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文 […]

教皇ベネディクト十六世は、待降節第二主日である12月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、中東、特にレバノンの平和のために次の呼びかけを行いました。
「わたしは中東で起こっているすべての出来事に深い懸念をもち続けています。中東地域を苦しめる問題が解決される希望は、緊張と困難へと変わり、新たな暴力への恐れを生み出しています。
 特にレバノンについて述べる必要があります。このレバノンの地で、昨日も今日も、『文化の面でも宗教の面でも異なる人びとは、共生しながら、「対話と共存」の国を築き、共通善を守るように』(教皇ヨハネ・パウロ二世シノドス後の使徒的勧告『レバノンのための新たな希望(1997年5月10日)』119)招かれています。ですから、最近の出来事を目の当たりにして、わたしは、先週の水曜日に発表された声明の中で総大司教のナスララー・ブートロス・スフェイル枢機卿とマロン典礼の司教の皆様が表明したのと同じ強い懸念を抱いています。
 この総大司教たちとともに、わたしはレバノン国民とレバノンの政治指導者に対してお願いします。どうか国家の善と、レバノンの諸共同体の間の協調にのみ心を向けてください。またわたしは、レバノンの人びとに一致への取り組みを促します。この一致への取り組みは、すべての人、また一人ひとりの人の責務であり、忍耐強くたゆみない努力とともに、信頼に満ちた持続的な対話を必要とします(同120参照)。わたしは、レバノンと中東全体が、必要とされる、速やかな平和的かつ公正な解決を見いだすことができるように支援してくださることを、国際社会に切望します。そして、この重要な時に際して、すべての人に祈ってくださるようお願いします」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の午前、わたしはローマの北トッリノ地区で、「福音宣教の星マリア」に新しい小教区教会を奉献できたことをうれしく思います。この行事は、それ自体としては北トッリノ地区に関係するものですが、待降節の中で象徴的な意味をもちます。わたしたちは待降節の中で主の降誕を祝う準備をしているからです。
 この数日間、典礼は常に、「神が来て」その民を訪れることをわたしたちに思い起こさせます。それは神が人びとの間に住み、人びととともに、愛といのちの交わり、すなわち家族を作るためです。そこでヨハネによる福音書は受肉の神秘を次のように表します。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。すなわち、文字通りに訳せば「わたしたちの間に幕屋を張られた」(ヨハネ1・14)。村や町の地区の家々の間にある教会の建物は、この偉大なたまものと神秘を思い起こさせるものではないでしょうか。
 教会の建物は、教会共同体を表す具体的なしるしです。教会共同体は、「生きた石」すなわち信者によって形づくられるからです。「生きた石」は、使徒たちにたいへん好まれたたとえです。聖ペトロ(一ペトロ2・4-5)と聖パウロ(エフェソ2・20-22)が強調するように、この霊的な神殿の「かなめ石」はキリストです。そして、このキリストに固く結ばれて一体となったわたしたちもまた、この生きた神殿の建設に参加するよう招かれています。
 それゆえ、人びとの間に住むために来ることを決めたのは神であり、この建築計画において中心となる建設者は常に神です。けれども神は、わたしたちが積極的に協力することなしにこの計画を実現することを望まなかったことも、またほんとうです。ですから、降誕祭を準備するとは、「神が人びととともに住む住まい」を築くように努めることにほかなりません。この務めを免除される人は誰もいません。すべての人は、この交わりの家がより広くかつ美しくなるために役立つことができますし、また役立たなければなりません。
 この交わりの家は、世の終わりに完成し、「天のエルサレム」となります。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・・さらにわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。・・・・『見よ、神の幕屋が人の間にある』」(黙示録21・1-3)。待降節はわたしたちに「天のエルサレム」へと目を向けるように招きます。この「天のエルサレム」が、わたしたちの地上の旅路の最終的な目的地です。同時に待降節は、祈りと回心とよいわざに励むように勧めます。それは、わたしたちの生活の中にイエスを迎え入れ、イエスとともにこの霊的な建物を築くためです。わたしたち――わたしたちの家族とわたしたちの共同体――の一人ひとりは、この霊的な建物の尊い石だからです。
 天のエルサレムを作り上げているすべての石の中で、もっとも光り輝いている貴い石が、至聖なるマリアであることはいうまでもありません。マリアは、すべての石の中で、「隅の親石」であるキリストにもっとも近いかただからです。マリアの執り成しによって祈りたいと思います。この待降節が全教会にとって霊的な建設の時となりますように。こうして神の国の到来が早まりますように。

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