教皇ベネディクト十六世の75回目の一般謁見演説 使徒聖パウロの協力者であるテモテとテトス

12月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の75回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、定期訪問でバチカンを訪れている司教団に伴われた、南 […]

12月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の75回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、定期訪問でバチカンを訪れている司教団に伴われた、南イタリアのカラブリア地方の諸教区の信者を初めとした、イタリアの信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の28回目として、「使徒聖パウロの協力者であるテモテとテトス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、使徒言行録16章1-5節が朗読されました。
この日、カラブリア州の寄贈によるクリマスツリーがサンピエトロ広場に立てられました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 偉大な使徒聖パウロについて詳しくお話しした後、今日わたしたちは、聖パウロの密接な協力者だったテモテとテトスの二人についての考察を行います。伝統的にパウロの著作とされる三つの手紙がこの二人に宛てて書かれています。そのうちの2通はテモテに宛てられ、1通はテトスに宛てられています。
 「テモテ」はギリシア語の名前で、「神を畏れ敬う者」という意味です。ルカが使徒言行録の中で6回テモテに言及しているのに対して、パウロはその手紙の中で17回テモテに言及しています(さらにテモテはヘブライ人への手紙の中に1回現れます)。わたしたちはここから、パウロがテモテをとても大事にしていたことを伺うことができます。ただしルカは、テモテに関することをすべて語っているわけではありません。実際、使徒パウロはテモテに重要な使命を託し、彼を「もう一人の自分」のようにみなしました。それは、フィリピの信徒への手紙に書かれたテモテへの大きな賛辞に示される通りです。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて(イソプシュコン)、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(フィリピ2・20)。
 テモテはリストラ(タルソスの北西200キロメートル)で、ユダヤ人の母と異教徒の父の間に生まれました(使徒言行録16・1参照)。テモテの母親は混宗婚を行い、息子テモテに割礼を受けさせませんでした。そこから、テモテはユダヤ教のおきてを厳しく守らない家庭で育ったと考えられます。けれどもテモテは幼い頃から聖書に親しんできたといわれています(二テモテ3・15参照)。テモテの母親の名はエウニケ、祖母の名はロイスであることが伝えられています(二テモテ1・5参照)。
 第2次宣教旅行の初めにリストラを通り過ぎたとき、パウロはテモテを同行者に選びました。「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」(使徒言行録16・2)からです。しかしパウロは「その地方に住むユダヤ人の手前」(使徒言行録16・3)、テモテに割礼を授けました。テモテは、パウロとシラスとともに、小アジアを通ってトロアスに行き、そこからマケドニアに渡りました。フィリピで、パウロとシラスは町を混乱させたと訴えられ、投獄されました。それは、二人が、平気で人の占いを行っていた若い女を酷使する主人たちに反対したためでした(使徒言行録16・16-40参照)。伝えられるところでは、テモテはこのフィリピで解放されます。その後、パウロがアテネに行かなければならなくなったとき、テモテはアテネでパウロに追いつき、そこから彼は若いテサロニケの教会に派遣されます。それはテサロニケの教会を励まし、その信仰を強めるためでした(一テサロニケ3・1-2参照)。次いでテモテはコリントで使徒パウロと合流し、テサロニケの信徒に関するよい知らせをパウロに伝え、パウロに協力してコリントの町に福音を宣べ伝えました(二コリント1・19参照)。
 わたしたちは、パウロの第3次宣教旅行に際して、エフェソでテモテを再び見いだします。使徒パウロはおそらくこのエフェソからフィレモンへの手紙とフィリピの信徒への手紙を書きました。そして二つの手紙の差出人はパウロとテモテの連名となっています(フィレモン1、フィリピ1・1参照)。パウロはエフェソからテモテをエラストという人とともにマケドニアに派遣しました(使徒言行録19・22参照)。その後パウロはテモテを、手紙を届けさせる任務のためにコリントへと派遣します。パウロはこの手紙の中で、テモテを手厚くもてなすように頼んでいます(一コリント4・17、16・10-11参照)。
 テモテはコリントの信徒への手紙二の共同の差出人として再び現れます。また、パウロはコリントからローマの信徒への手紙を書いたとき、他の人びとのあいさつとともにテモテのあいさつを一緒に伝えています(ローマ16・21参照)。パウロの弟子テモテはコリントから再びトロアス(エーゲ海のアジア州岸)に向かい、そこで使徒パウロを待ちました。パウロは第3次宣教旅行の終わりにエルサレムに向かっていたからです(使徒言行録20・4参照)。
 このときからのテモテの生涯に関して、古代の資料は、ヘブライ人への手紙の暗示を除いて何も伝えていません。ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう」(ヘブライ13・23)。結論として、テモテの姿はきわめて重要な司牧者として際立っているということができます。後代のエウセビオスの『教会史』によれば、テモテはエフェソの初代司教となりました(エウセビオス『教会史』3・4参照)。テモテの聖遺物の一部は、1239年からイタリアのモリーゼ州のテルモリ司教座聖堂に安置されています。これはコンスタンチノープルからもたらされたものです。
 テトスの姿についていえば、テトスという名前はラテン語に由来します。わたしたちはテトスがギリシア生まれであったこと、すなわち異邦人であったことを知っています(ガラテヤ2・3参照)。パウロはいわゆる使徒会議の際、エルサレムにテトスを連れて行きました。この使徒会議の中で、モーセの律法のおきてを強制することなしに異邦人に福音を宣べ伝えてよいことが正式に認められました。
 テトスへの手紙の中で、使徒パウロは彼を「信仰をともにするまことの子」(テトス1・4)と呼んで称賛しています。テモテがコリントに向けて出発した後、パウロは、このいうことを聞かない共同体を忠実へと呼び戻す使命のもとにテトスを派遣しました。テトスはコリントの教会の平和を回復しました。そこで使徒パウロは次のように述べます。「気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。・・・・この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のおかげで元気づけられたからです」(二コリント7・6-7、13)。パウロは、エルサレムの信徒のための献金を成し遂げる準備のために(二コリント8・6参照)、テトスを再びコリントに派遣します。その際、パウロはテトスを「わたしの同志であり・・・・協力する者」(二コリント8・23)と呼んでいます。「牧会書簡(一テモテ、二テモテ、テトス)」のその他の記事によれば、テトスはクレタの司教(監督)といわれます(テトス1・5参照)。テトスはこのクレタからパウロの招きによってエピルスのニコポリスでパウロと合流します(テトス3・12参照)。その後テトスはダルマティアにも行きました(二テモテ4・10参照)。その後のテトスの旅行や彼の死については知られていません。
 終わりに、テモテとテトスの二人の姿を一緒に考えてみると、いくつかの大事なことに気づきます。もっとも重要なことは、パウロがその宣教の発展のために協力者を用いたことです。特別な意味での使徒であるパウロが、多くの教会の創立者であり、司牧者であったことはいうまでもありません。にもかかわらず、明らかに、パウロはすべてのことをひとりで行ったのではなく、自分と労苦と責任を分かち合う信頼できる人に仕事を委ねました。
 もう一つの注目すべき点は、この二人の協力者の進んで行う態度です。テモテとテトスに関する資料は、二人がさまざまな任務を進んで果たしたことを明らかにしています。これらの任務は、しばしば困難な状況の中でパウロの代理を務めることでした。要するに、二人はわたしたちに寛大な心で福音に奉仕することを教えてくれます。彼らは、福音に奉仕することが、教会そのものに奉仕することでもあることを知っていたからです。
 最後に、テトスへの手紙の中で使徒パウロがテトスに述べた勧めを思いめぐらしたいと思います。「あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人びとが、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人びとに有益です」(テトス3・8)。わたしたちは自ら具体的に取り組むことを通じて、このことばが真実であることを見いださなければなりませんし、また見いだすことができます。わたしたちはまさにこの待降節という時期に、良い行いに励み、そこから、わたしたちの主キリストへと世の扉を開くからです。

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