教皇ベネディクト十六世の2006年12月17日の「お告げの祈り」のことば 喜びなさい

教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日である12月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文 […]

教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日である12月17日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、シリアにいるイラク難民の支援のために次の呼びかけを行いました。
「今日、わたしの思いはシリアにいる数十万人のイラク難民に向かいます。彼らはその経験している悲惨な状況のゆえに故国を離れることを余儀なくされています。カリタス・シリアはこの難民の支援に尽力しています。けれどもわたしは、難民の緊急の必要にこたえるためにさらなる努力をしてくださるように、個人、国際機関そして各国政府の心に訴えたいと思います。わたしは主に祈ります。どうか主がこの兄弟姉妹を慰め、また多くの人びとの心を寛大にしてくださいますように」。
12月2日の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の報告によれば、イラク国内には160万人の難民がおり、またイラク国外に逃れた難民は160-180万人に上ります。そのうち70万人がヨルダンに、50-60万人がシリアに、10万人がエジプトに、2-4万人がレバノンに、5万4千人がイランに、数万人がそれ以外の国にいます。
なお、この日、慣例に従って、教皇は、サンピエトロ広場に集まった子どもたちが携えた、馬小屋に飾る幼子イエスの像を祝福しました。教皇はイタリア語で次のように述べました。
「ローマの子どもたちと若者の皆様に特別にごあいさつします。皆様は、ご家族や先生ととともに、自宅や学校や聖堂の馬小屋に飾る幼子イエスのご像を祝福してもらうために来てくださったからです。この大事な巡礼を準備されたローマの小教区センターに感謝します。心から、すべての『幼子イエス』を祝福します。親愛なる若者の皆様。馬小屋の前で、教皇の意向のためにもイエスに祈ってください。皆様に感謝するとともに、皆様がよい降誕祭を迎えられますように祈ります」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の待降節第三主日にあたり、典礼はわたしたちが喜びの心をもつように招きます。今日の典礼の有名な答唱詩編は、使徒パウロの勧めのことばを用いています。「主において常に喜びなさい(Gaudete in Domino)。・・・・主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・4、5参照)。ミサの第一朗読も喜びヘの招きです。預言者ゼファニヤは、紀元前7世紀の終わりに、エルサレムの町と人びとに次のことばで呼びかけました。「娘シオンよ、喜び叫べ。・・・・娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。・・・・お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる」(ゼファニヤ3・14、17)。
 神ご自身も同じような思いを示します。「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(ゼファニヤ3・17-18a)。この約束は降誕の神秘によって完全に実現しました。わたしたちは一週間後、この降誕の神秘を祝います。降誕の神秘はまた、わたしたちの人生と歴史の中で「今日」新たにされることを求めます。
 典礼がキリスト信者の心の中に呼び覚ましたこの喜びは、キリスト信者の心の中だけにとどめておくことはできません。この喜びは全人類に向けて、とりわけもっとも貧しい人、また、この場合、「もっとも喜びを味わうことの少ない人」に告げられた預言です。
 わたしたちの兄弟姉妹、特に中東や、アフリカの一部の地域、また世界の他の地域で、悲惨な戦争を体験している兄弟姉妹のことを考えたいと思います。この人びとはどのような喜びを味わうことができるでしょうか。この人びとの降誕祭はどのようなものとなるでしょうか。すべての病気の人と孤独な人のことを考えたいと思います。この人びとは、身体的な苦しみだけでなく、心の苦しみも味わっています。彼らは自分が人から見捨てられたと感じることが少なくないからです。この人びとの苦しみに気づかずに、どうして彼らと喜びをともにすることができるでしょうか。
 けれどもわたしたちは、特に青年たちのことを考えたいと思います。この青年たちはほんとうの喜びの感覚を失うとともに、喜びを見いだすことのできないところにこの喜びを空しく探しています。すなわち、自信や成功を求める激しい競争、偽りの楽しみ、消費、さまざまな陶酔の時、薬物やさまざまな馬鹿げたことに基づく人工的な楽園のうちに。今日の典礼の「喜びなさい」という招きと、この悲惨な現実とを比べずにいられるでしょうか。
 預言者ゼファニヤの時代と同じように、主のことばはまさに苦しむ人、「傷ついた生涯を送り、喜びに見放された人」に向けて特別に語られます。喜びへの招きは、そらぞらしい知らせでも、その場限りの無益なことばでもありません。むしろそれは、救いの預言であり、内面の刷新から始まる、解放への呼びかけなのです。
 世を造り変えるために、神はガリラヤの町の身分の低い少女である、ナザレのマリアを選びました。そして神はこのマリアにこういってあいさつしました。「おめでとう、恵まれたかた。主があなたとともにおられる」。真の意味での降誕祭の秘密は、このことばのうちにあります。神はこのことばを、教会とわたしたち一人ひとりにも、もう一度語りかけます。「喜びなさい。主はすぐ近くにおられます」。マリアの助けによって、わたしたちも謙遜と勇気をもって、自らをささげようではありませんか。それは、世がキリストを迎え入れることができるためです。キリストこそがまことの喜びの源だからです。

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