教皇ベネディクト十六世の76回目の一般謁見演説 降誕祭の神秘について

12月20日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の76回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った降誕祭の神秘について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリ […]

12月20日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の76回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った降誕祭の神秘について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ガラテヤの信徒への手紙4章4-6節が朗読されました。謁見には8000人の信者が参加しました。
この日の夕方4時半に、先週の水曜日にサンピエトロ広場に立てられたクリスマスツリーが点灯されました。クリスマスツリーはカラブリア州のシラ国立公園のモミの木で、高さ30メートル、重さ7トンを超えるものです。点灯式は、今年9月15日に新たにバチカン市国政庁長官に任命されたジョヴァンニ・ラヨロ大司教が司式しました。
サンピエトロ広場にはクリスマスツリーとともに大きな馬小屋が設置されます。サンピエトロ広場にクリスマスツリーと馬小屋が置かれるようになったのは、教皇ヨハネ・パウロ二世の時代の1982年からです。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 「主はすぐ近くにおられます。来て、拝もうではありませんか」。待降節のこの三日間、典礼はこのことばをもってわたしたちを招きます。ひそやかにベツレヘムの馬小屋に近づくようにと。このベツレヘムの馬小屋で、あがない主の誕生という、歴史の流れを変える、特別な出来事が起こったからです。
 降誕祭の夜、わたしたちはあらためて馬小屋の前に立ち止まります。それは、「肉となったみことば」を驚きをもって仰ぎ見るためです。わたしたちはいつもの年と同じように、心の中で喜びと感謝の思いを新たにします。そして、降誕祭の聖歌が、同じ特別な驚くべきわざを、さまざまなことばで歌うのを耳にします。世の造り主は、愛のゆえに、来て、人間の間に住まわれました。聖パウロはフィリピの信徒への手紙の中でいいます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2・6-7)。続けて使徒パウロはいいます。キリストは人間の姿で現れ、へりくだりました。聖なる降誕祭に、わたしたちは、この最高の恵みと憐れみの神秘が実現するのをあらためて体験します。
 聖パウロはまたいいます。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4-5)。実際、選ばれた民は何世紀もの間、メシアを待ち望んでいました。けれども彼らの思い描いたメシアは、力のある、勝利をもたらす指導者でした。この指導者は自分の民を異邦人の圧政から解放してくれるはずでした。
 ところが、救い主は、沈黙と、完全な貧しさのうちに生まれました。福音書記者ヨハネはいいます。この救い主は、すべての人を照らす光として来ました。しかしこのかたを「自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・9、11)。けれども使徒ヨハネは続けていいます。「しかし、ことばは、自分を受け入れた人・・・・には神の子となる資格を与えた」(同1・12)。約束された光は、忍耐強く目覚めて熱心に待ち望んだ人の心を照らしたのです。
 待降節の典礼はまた、わたしたちに節制して目覚めているようにと勧めます。それは、わたしたちが、罪と、この世の心配とによって押しつぶされないためです。実際、目覚めて祈ることによって、わたしたちはキリストの降誕の輝きを認め、受け入れることができるようになります。トリノの聖マクシムス(4-5世紀の司教)は、その説教の一つの中で、こういっています。「時は主キリストの降誕が近づいたことを告げています。自らのさまざまな心配を抱えた世は、世を新たにする何かの到来が近いと語ります。そして、輝きを増した太陽が闇を照らすのを、我慢強く待ち望みます。・・・・このような被造物の期待も、わたしたちが新しい太陽であるキリストの上るのを待ち望むように促します」(『説教』:Sermones 61a, 1-3)。ですから、被造物も、わたしたちが来るべきかたを見いだし、認めるように促すのです。
 けれどもここで問うことができます。現代の人類は今なお救い主を待ち望んでいるでしょうか。多くの人は、神が自分たちの関心事と無関係だと考えているように思われます。人びとは神を必要としていないように見えます。人びとは、神が存在しないかのように暮らしています。さらにひどい場合は、神は、人びとが自らを実現するために、取り除くべき「障害物」であるかのようです。このことも確実にいえます。信者の中にさえも、魅惑的な幻想に引き寄せられ、誤った教えによって道からそれる人がいます。このような誤った教えは、幸福を得るためのまやかしの近道を示すからです。
 しかしながら、その反抗と不安と悲惨にもかかわらず、またおそらくそうしたもののゆえに、現代の人類は、刷新と救いへの道を、すなわち、救い主を探し求めています。こうして彼らは、時には自覚を伴わずに、世とわたしたちの人生を新たにしてくれる救い主の到来を待ち望んでいます。すなわち、人間とすべての人の唯一、まことのあがない主である、キリストの到来を待ち望んでいるのです。偽預言者が「安物」の救いを示し続けるのはたしかです。このような「安物」の救いは、ついにはかならず大きな幻滅をもたらします。実際、過去50年の歴史は、「安物」の救い主の探求が行われたことを示しています。そして、そこから幻滅がもたらされたことをあますところなく明らかにしています。
 わたしたちキリスト信者の務めは、生活のあかしによって、降誕祭の真理を広めることです。キリストはこの降誕祭の真理をすべての善意の人にもたらすからです。貧しい馬小屋で生まれたイエスは、唯一、人の心の望みを満たすことのできる、喜びと平和をすべての人に与えるために来ました。
 けれどもわたしたちは、来るべき主にわたしたちの心を開くために、どのように準備すればよいでしょうか。この待降節の間の、変わることのないキリスト信者の根本的なあり方は、目覚めて祈りながら待ち望むという霊的な態度です。それは待降節の中心となる人びとを特徴づける態度です。すなわち、ザカリアとエリサベト、羊飼い、占星術の学者たち、単純な身分の低い人びとです。とりわけそれは、マリアとヨセフが待ち望む態度に見られます。マリアとヨセフは、幼子が生まれるための心配や不安を他の誰よりも自ら味わいました。新しく生まれる子をその腕に抱くのを待つ最後の数日間を、二人がどのように過ごしたかを想像するのはむずかしいことではありません。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。彼らの態度がわたしたちの態度となりますように。このことに関連して、すでに引用した、トリノの司教聖マクシムスの勧めに耳を傾けたいと思います。「主の降誕を迎える準備をするにあたって、汚れのない清い衣をまとおうではありませんか。わたしがいっているのは、からだにまとう衣ではなく、心の衣のことです。絹の服ではなく、聖なるわざをまとおうではありませんか。きらびやかな服は、手足を覆うことはできても、良心を飾ることはできません」(同)。
 わたしたちの間に生まれた幼子イエスがわたしたちを見いだすとき、わたしたちが道からそれたり、自分の家をイルミネーションで飾ることだけにいそしんでいたりすることがありませんように。むしろ、幼子イエスが信仰と愛によって迎え入れられていると感じることのできるような、ふさわしい住まいを、自分たちの心と家庭の中に用意しようではありませんか。おとめマリアと聖ヨセフの助けによって、わたしたちが新たな驚きと、平和で落ち着いた心をもって、降誕祭の神秘を味わうことができますように。
 このような思いで、わたしは、ここにおられるすべての皆様と、皆様のご家族に申し上げたいと思います。聖なるよい降誕祭を迎えられますことを心からお祈りします。またわたしは、特に、困難に遭っている人や、からだと心で苦しんでいる人のことを思い起こします。皆様、どうかよい降誕祭をお迎えください。

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