教皇ベネディクト十六世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2006.12.25)

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます […]

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
メッセージの発表の後、62か国語による祝福が述べられました。教皇は51番目に日本語で次のように述べました。「クリスマスと新年おめでとうございます」。最後の祝福は、メッセージの中でも引用されていることばを用いて、ラテン語で行われました。「わたしたちの救い主が世に生まれた」(Salvator noster natus est in mundo)。これは、教皇が今年のクリスマスのグリーティングカードに書いたことばです。


 

「わたしたちの救い主が世に生まれた」(ローマ・ミサ典礼書)。


 
 「わたしたちの救い主が世に生まれた」。昨晩、わたしたちの教会で、わたしたちはあらためてこの知らせを耳にしました。時代が移り変わっても、この知らせはその新しさを変わることなく保っています。この天からの知らせは、わたしたちに「恐れるな」と招きます。「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)が生まれたからです。それは希望の知らせです。二千年前のこの夜、こう告げられたからです。「ダビデの町で、救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・11)。そのとき、ベツレヘムの丘で野宿していた羊飼いに告げたことを、今日、降誕祭の天使は、現代世界に生きるすべての人に告げます。「救い主がお生まれになった。このかたはあなたがたのためにお生まれになった。来なさい。来て、このかたを拝もうではありませんか」。
 しかし、「救い主」は、第三千年期の人びとにとっても、なお重要性と意味をもっているでしょうか。月や火星に到達し、宇宙を征服する用意ができている人類は、なお「救い主」を必要としているでしょうか。自然の神秘を限りなく探究し、ヒトゲノムの驚くべきコードを解読することにまで成功した人類が、なお「救い主」を必要としているでしょうか。双方向の情報通信技術を開発した人類は、「救い主」を必要とするでしょうか。こうした情報通信技術は、インターネットの仮想的な海を航行し、また、現代の発達したマス・メディア技術によって、今やこの大きな共通の家である地球を一つのグローバルな小村にしたからです。この21世紀の人類は、確かで自足したしかたで自分自身の運命を作り出し、熱心に議論の余地のない成功をもたらしているかのように思われます。
 しかし、それは見せかけだけで、実際にはそうではありません。豊かさと、とどまることのない消費の時代に、人びとはあいかわらず飢餓や渇き、病と貧困によって死んでいます。今なお、奴隷とされ、搾取され、自らの尊厳を奪われる人がいます。人種的・宗教的な憎悪の犠牲となる人、また、自らの信仰を自由に表明することに関して、不寛容や差別、政治的な制限や、身体的・倫理的強制によって自由を奪われている人もいます。すべての人がすべての人のための進歩と連帯と平和を願い求め、宣言している時代に、武器やテロやあらゆる種類の暴力の行使によって、自分と愛する家族、特に子どもの身体が傷つけられています。人間らしく生きることのできる他の場所を求めて、家や祖国を離れざるをえない、希望を奪われた人びとについて、何といえばよいでしょうか。安易な幸福の預言に欺かれた人。人とのつながりを欠きながら、自らの現在と未来についてはっきりした責任をとることのできない人。孤独のトンネルを歩み、ついにはしばしばアルコールと薬物の奴隷となる人。これらの人びとを、どのように助ければよいでしょうか。生命を謳歌(おうか)していると信じながら、自殺を選ぶ人を、どのように考えればよいでしょうか。
 この喜びと絶望のうちにある人類の奥底から、助けを求める苦悩の叫び声を聞かずにいられるでしょうか。今日は降誕祭です。今日、「すべての人を照らす・・・・まことの光」(ヨハネ1・9)が世に来ました。福音書記者ヨハネは告げます。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)。今日、まさにこの日、キリストはあらためて「自分の民のところへ」来られます。そして、自分を受け入れた人に「神の子となる資格」を与えます。すなわち、キリストは、神の栄光を見、愛であるかたの喜びにあずかる機会を与えます。この愛であるかたが、ベツレヘムでわたしたちのために肉となったからです。今日、そして今日も、「わたしたちの救い主が世に生まれた」。なぜなら、救い主は、わたしたちが救い主を必要としていることを知っておられるからです。多くの進歩にもかかわらず、人類は以前と変わることがありません。自由は、善と悪、いのちと死の間ではかりにかけられています。まさにこの自由において、その内面において、すなわち、聖書が「心」といっている場所で、人類は常に「救い」を必要としています。このポスト・モダンの時代において、人類はおそらくいっそう救い主を必要としています。人類が生きる社会はいっそう複雑なものとなり、人間の人格的・道徳的な一体性に対する脅威はいっそう危険なものとなっているからです。十字架上でご自分の独り子を世の救い主としてささげるまでに人間を愛してくださるかた以外の、誰が人間を守ることができるでしょうか。
 「わたしたちの救い主」。キリストは現代の人間にとっても救い主です。誰がこの希望の知らせを、地の果てに至るまで、信頼できるしかたで告げることができるでしょうか。誰が、すべての人間とその固有の尊厳を尊重しながら、平和の条件である、人間の人格の完全な善を認め、擁護し、推進すべく努めるでしょうか。誰が、善意と分別と中庸によって、紛争の悪化を避け、公正な解決を見いだすことができることを理解するための助けとなってくれるでしょうか。この祭日にあたり、わたしは深い懸念をもって中東地域に思いを致します。中東地域は多くの深刻な危機と紛争を抱えています。そしてわたしは、中東地域にいる人びとの不可侵の権利を尊重しつつ、公正で持続的な平和への道が開けることを願います。わたしはベツレヘムの神の幼子のみ手に、この数日間示されている、イスラエル国民とパレスチナの人びとの間の対話が再開されるためのさまざまなきざしと、人びとを力づけるさらなる進展への希望とを委ねます。わたしは確信しています。多くの犠牲と破壊と不安定の後に、諸文化と諸宗教との対話を通じて他者へと開かれた、民主的なレバノンが存続し、発展することを。わたしはイラクの行く末をその手に握るすべての人びとに呼びかけます。どうかイラクに流血をもたらした残虐な暴力をやめさせ、イラクのすべての住民に通常の生活を保障してください。わたしは神に祈り願います。スリランカにおいて、紛争当事者たちは、兄弟愛と連帯に基づく未来を求める民の願いを聞き入れてくださいますように。ダルフールアフリカ全土において、兄弟を殺し合う紛争が終わり、アフリカ大陸で開いた傷が速やかにいやされ、和解と民主政治と発展への歩みが堅固なものとなりますように。どうか平和の君である神の幼子が、ヨーロッパラテンアメリカのような、世界のこれ以外の地域の未来を不安定にする緊張の火種を消してくださいますように。
 「わたしたちの救い主」。これが、わたしたちの希望です。これが、この降誕祭の日に教会があらためて告げる知らせです。第二バチカン公会議が述べているように、神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させました(『現代世界憲章』22参照)。大教皇聖レオがいうように、頭の誕生はからだの誕生でもあります。キリスト信者の民は、ベツレヘムで、キリストの神秘的なからだとして生まれました。この神秘的なからだの中で、一つひとつの部分は完全な連帯のうちに他の部分と密接に結び合わされています。「わたしたちの救い主はすべての人のために生まれた」。わたしたちはこのことを、ことばだけでなく、わたしたちの生活全体でも告げ知らせなければなりません。そのためにわたしたちは、一致しながら開かれた共同体を世にあかしします。この共同体の中で中心とならなければならないのは、兄弟愛とゆるし、互いに受け入れ合い、仕え合うこと、そして真理と正義と愛です。
 キリストによって救われた共同体。これが、教会の真の本質です。教会はみことばと聖体によって養われるからです。教会は、自分が与えられたたまものを再発見することによって初めて、すべての民の前で救い主キリストをあかしすることができます。教会は、すべての文化と宗教の伝統を完全なしかたで尊重しながら、このあかしを熱心に、情熱をこめて行います。教会はそれを喜びをもって行います。なぜなら、教会は、自分が告げ知らせるかたが、真の意味で人間的なものを何も取り去ることなく、かえってそれを完成させてくださることを知っているからです。まことに、キリストが来られたのは、悪と罪のみを滅ぼすためでした。それ以外のすべてのものを、キリストは高め、完成します。キリストはわたしたちの人間性からわたしたちを救うのではありません。わたしたちの人間性を通してわたしたちを救うのです。キリストは世からわたしたちを救うのではありません。キリストは世に来られました。それは、キリストを通して世が救われるためです(ヨハネ3・17参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様がどこにおられても、この喜びと希望の知らせを耳にすることができますように。神はイエス・キリストにおいて人となられました。おとめマリアから生まれたかたが、今日、教会の中で再び生まれました。キリストは天の父の愛をすべての人にもたらします。キリストは世の救い主です。恐れることはありません。キリストに向けて心を開き、キリストを受け入れてください。そうすれば、愛と平和の国がすべての人の共通の遺産となるでしょう。降誕祭おめでとうございます。

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