教皇ベネディクト十六世の77回目の一般謁見演説 主の降誕の神秘について

12月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の77回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2日前に祝ったばかりの、主の降誕の神秘について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ルカによる福音書2章13-14節が朗読されました。謁見には9000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の集いは降誕祭の雰囲気の中で行われています。わたしたちは救い主の誕生への心からの喜びに満たされています。わたしたちは一昨日、この神秘を祝ったばかりです。この神秘は、この数日間の典礼の中でこだまし続けています。それは、すべての世の人が信仰によって再体験することができる、光の神秘です。
 わたしたちの心の中には、福音書記者ヨハネのことばが響いています。わたしたちは今日、このヨハネの祝日を祝います。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた(Et Verbum caro factum est)」(ヨハネ1・14)。ですから、降誕祭に、神はわたしたちの間に宿られました。神はわたしたちのために来てくださいました。それは、わたしたちとともにどまってくださるためです。これまでの2000年のキリスト教の歴史を通して、一つの問いが発せられてきました。「しかし、神はなぜそうなさったのだろうか。なぜ神は人となられたのだろうか」。
 ベツレヘムの馬小屋で天使たちが歌った歌は、この問いに答えるためにわたしたちを助けます。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」(ルカ2・14)。「栄光の賛歌」に取り入れられた、この主の降誕の夜の賛歌は、イエスの誕生と幼年期について述べる、新約聖書の他の三つの賛歌とともに、今や典礼の一部となっています。三つの賛歌とは、「ザカリアの歌」、「マリアの賛歌」、そして「主よ、今こそあなたは」です。
 「ザカリアの歌」と「マリアの賛歌」と「主よ、今こそあなたは」は、それぞれ教会の祈りの朝の祈り、晩の祈り、寝る前の祈りの結びとして唱えられるのに対して、「栄光の賛歌」はミサの中で唱えられます。2世紀以来、天使のことばにいくつかの賛美が加えられました。「われら主をほめ、主をたたえ、主をおがみ、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる」。そして後に他の祈願が加えられました。「神なる主、神の小羊、父の御子よ。世の罪を除きたもう主よ・・・・」。こうして出来上がった長い賛歌は、降誕祭のミサで初めて歌われ、続いて他の祝日でも歌われるようになりました。
 感謝の祭儀の初めに唱えられる「栄光の賛歌」は、キリストの誕生と死、すなわち降誕祭と復活祭の連続性を強調します。降誕と復活は、唯一の同じ救いの神秘の、切り離すことのできない二つの側面だからです。
 福音書は、天使の大軍がこう歌ったと語ります。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」。天使たちは羊飼いたちに、イエスの誕生こそが、天のいと高きところにおられる神の栄光なのだと告げます。これこそが、御心にかなう人にとっての地上の平和なのだと告げるのです。
 そこで、降誕祭の神秘を説明するために、この天使のことばが通常、馬小屋の上に掲げられるのは、ふさわしいことです。主の降誕は馬小屋で行われたからです。「栄光(ドクサ)」ということばは、神の威光を表します。この神の威光が、被造物が感謝の賛美をささげることを促します。聖パウロがいうように、被造物は「キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る」(二コリント4・6)からです。「平和(エイレネー)」は、メシアの与える完全なたまもの、すなわち救いを要約します。この救いは、使徒パウロがいうように、キリストご自身にほかなりません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2・14)。
 最後に「善意の人」のことが述べられます。「善意(エウドキア)」は、普通に使われることばで、人間の「善意」を思い浮かべさせます。しかし、ここで意味されるのはむしろ、人間に対する神の限りない「善意」です。それゆえ、ここに降誕祭のメッセージがあります。それは、イエスの誕生によって、神がすべての人に対するご自分の善意を現されたということです。
 「なぜ神は人となられたのか」という問いに戻りたいと思います。聖イレネオはこう述べます。「みことばは、人間に役立つために、父の栄光の分配者となった。・・・・神の栄光は生きている人間(vivens homo)である。そして、人間の生は神を見ることのうちにある」(『異端反駁』:Adversus haereses, IV, 20, 5. 7)。
 それゆえ、神の栄光は人間の救いのうちに現されました。ヨハネによる福音書が述べているように、神は「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からです。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。それゆえ、この愛こそが、キリストの受肉の究極の理由です。
 神学者ハンス・ウルス・フォン・バルタザールの考察は、このことを雄弁に語っています。彼はこう述べています。神は「まず絶対的な権力なのではなく、絶対的な愛です。この絶対的な愛の支配は、自分が所有するものを保持することによってではなく、それを放棄することによって示されます」(『過越の神秘』:Mysterium paschale, I, 4)。
 わたしたちが馬小屋の中に仰ぎ見る神は、愛である神です。その意味で、天使たちの知らせはわたしたちへの招きでもあります。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」。
 神を賛美し、世界に平和を築くための唯一の方法は、降誕祭のたまものを、へりくだった信頼の心をもって受け入れることです。そうすれば、わたしたちは、天使たちの賛歌を、降誕節だけでなく、しばしば唱えることができるようになります。天のいと高きところにおられる神を賛美し、地上の平和を熱心に願い求めること――それは、わたしたちが自らの人生によって具体的に実現しなければならない使命です。この使命を、主の降誕はわたしたちに委ねているのです。

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