教皇ベネディクト十六世の78回目の一般謁見演説 主の降誕の神秘について

2007年1月3日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の78回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、いま一度、主の降誕の神秘について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネの手紙一3章1-2節が朗読されました。謁見には9000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 皆様が示してくださった愛情に感謝します。皆様すべてにとってよい新年となりますことを願います。この新年最初の一般謁見は、まだ降誕祭の雰囲気のうちに行われています。この雰囲気は、わたしたちにあがない主の誕生を喜ぶよう招きます。イエスは、世に来ることによって、人類にいつくしみと憐れみと愛のたまものを豊かに注ぎました。使徒ヨハネは、すべての時代の人の心を読み取るかのように、こう述べます。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(一ヨハネ3・1)。
 身を守るすべもなく飼い葉桶の中に寝かされている神の子の前で黙想するなら、この人間の目からすれば信じられない出来事に、誰もが驚くほかありません。人は、おとめマリアの驚きと謙遜な信頼にあずかることしかできません。神はまさにこの謙遜のゆえに、マリアをあがない主の母として選んだからです。
 ベツレヘムの幼子によって、すべての人は、自分が神から無償で愛されているのを見いだします。降誕の光によって、神の限りないいつくしみがわたしたち皆に示されます。イエスによって、天の父はわたしたちと新しい関係を結びました。天の父は「ご自身の独り子によって」わたしたちを「子」としてくださいました。この数日間、聖ヨハネがその豊かな深いことばによってわたしたちに黙想するよう招くのは、まさにこの事実です。わたしたちは今そのことばの一部を聞きました。
 主に愛された使徒ヨハネは、わたしたちがほんとうに子であることを強調します。「事実また、その通りです」(一ヨハネ3・1)。わたしたちは被造物であるだけでなく、子なのです。このようなしかたで、神はわたしたちの近くにおられます。このようなしかたで、神はその受肉のときに、すなわちわたしたちの一人となられたときに、わたしたちをご自身へと引き寄せてくださいます。ですから、わたしたちは真の意味で、神を父とする家族に属する者です。なぜなら、独り子であるイエスが、わたしたちの間に天幕を、すなわちご自分の肉という天幕を張ったからです。それはすべての民を唯一の家族として、すなわち神の家族として集めるためでした。こうしてすべての民は、一つの民、一つの家族として結ばれながら、真の意味で神の存在に属する者となります。
 イエスが来たのは、父の真のみ顔をわたしたちに示すためでした。ですから、わたしたちが今「神」ということばを用いるとき、この「神」はもはやただ遠くから知ることができるだけの存在ではありません。わたしたちは神のみ顔を知っています。それは御子のみ顔です。御子は来て、天の存在を、わたしたちと地に近いものとしてくださったからです。
 聖ヨハネはこう述べています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し・・・・ました。ここに神の愛があります」(一ヨハネ4・10)。主の降誕にあたって、単純な、驚くべき知らせが世界中に告げられました。「神はわたしたちを愛しています」。聖ヨハネはいいます。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(一ヨハネ4・19)。この神秘が今やわたしたちの手に委ねられています。それは、神の愛を経験することを通して、わたしたちが天の国をめざして生きるためです。わたしたちは、これが、この数日間、わたしたちが行っていることだということもできます。すなわち、真の意味で神をめざして生きるということです。そのために、まず神の国と神の義を求め、その他のものは、すなわちその他のものは皆、加えて与えられることを信じなければなりません(マタイ6・33参照)。降誕節の霊的な雰囲気は、わたしたちがこのことをもっとよく知ることができるように、助けてくれます。
 しかしながら、降誕の喜びが、わたしたちに悪の神秘(mysterium iniquitatis)を忘れさせることはありません。悪の神秘とは、神の光の輝きを曇らせようとする、闇の力のことです。そして、残念なことに、わたしたちはこの闇の力を毎日経験しています。
 福音書記者ヨハネは、数日前に何度も読まれた、その福音書の序文の中で、こう述べます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を受け入れなかった」(ヨハネ1・5)。
 過去と同じように、現代でも、残念ながら、キリストへの悲しむべき拒絶は、多くの、またさまざまな形で示され、表明されています。もしかすると、現代における神の拒絶の形態は、もっとも陰険かつ危険なものかもしれません。それには、はっきりとした拒絶から無関心に至るまで、科学的無神論から、いわゆる現代的な、もっと正確にいえば、ポストモダンのイエス像に至るまで、さまざまなものがあります。このイエスは、その神性を奪われ、さまざまな形で、たんなる当時の人間にすぎない者におとしめられた、人間イエスです。さもなければ、きわめて理想化されて、作り話の主人公のように見えるイエスです。
 けれども、イエスは、すなわち歴史上の真のイエスは、真の神にして真の人です。すべての人にうむことなく福音を告げたかたです。このかたは、老人シメオンが預言したように、自分が「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」の「反対を受けるしるし」(ルカ2・32-35参照)であることを自覚していました。
 実際、飼い葉桶に寝かされている幼子だけが、人生のまことの秘密をにぎるかたです。だから、幼子はわたしたちに求めます。自分を迎え入れてくれるようにと。わたしたちの中に、わたしたちの心、わたしたちの家、わたしたちの町、わたしたちの社会の中に、自分のための場所を作ってくれるようにと。ヨハネの序文のことばは、わたしたちの思いと心の中で響いています。「(みことばは)自分を受け入れた人・・・・には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1・12)。このかたを受け入れる者の一人となるように努めようではありませんか。人はこのかたの前で、無関心でいることはできません。親愛なる友人の皆様。わたしたちも、自分の立場を決め続けなければなりません。では、わたしたちはどのようにこたえればよいでしょうか。どのような態度で、このかたを迎え入れればよいでしょうか。わたしたちを助けてくれるのは、羊飼いの単純さであり、占星術の学者たちの探求です。占星術の学者たちは、星を通じて神のしるしを探ったからです。わたしたちの模範となるのは、マリアの従順さと、ヨセフの知恵に満ちた賢明さです。
 2000年以上にわたるキリスト教の歴史は、主の降誕の神秘を信じた、男性と女性、若者と大人、子どもと老人の多くの模範に満ちています。この人びとは「わたしたちとともにおられる神(インマヌエル)」にその両手を広げ、その生涯によって光と希望となりました。
 ベツレヘムで生まれたイエスが世にもたらした愛は、イエスを迎え入れるすべての人を、変わることのない友愛と兄弟愛のきずなをもって、イエスご自身と結びつけます。十字架の聖ヨハネはこう述べます。「神はわたしたちにすべてを、すなわち御子をお与えになることにより、御子によって今やすべてを語られたのである。・・・・目をキリストの上にだけ注ぎなさい。・・・・そうすれば、あなたは自分が求め、願う以上のことを加えて見いだすであろう」(十字架の聖ヨハネ『カルメル山登攀』第2部第22章4-5)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。新年の初めにあたり、思いと心をキリストに向けて開くという努めを、自分たちの中であらためて強めようではありませんか。そして、キリストの真の友として生きたいという望みを、心からキリストに示そうではありませんか。このようにして、わたしたちはキリストの救いの計画の協力者となります。また、キリストがわたしたちに与えてくださった喜びをあかしする者となります。この喜びが与えられたのは、わたしたちがそれをわたしたちの周りに豊かに広めるためだからです。
 マリアの助けによって、わたしたちが「わたしたちとともにおられる神(インマヌエル)」に心を広げることができますように。このかたは、わたしたちの貧しく弱い肉をとられました。それは、わたしたちとともに、地上の生活の困難な道のりをともに歩むためでした。しかしながら、イエスとともに歩むなら、この困難な旅路は喜びの旅路となります。イエスとともに進んでいこうではありませんか。イエスとともに歩こうではありませんか。そうすれば、新しい年は幸いな、よい年となることでしょう。

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