教皇ベネディクト十六世の2007年1月7日の「お告げの祈り」のことば 主の洗礼にあたって

教皇ベネディクト十六世は、1月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、小雨の中、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語) […]

教皇ベネディクト十六世は、1月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、小雨の中、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
バチカンでは1月7日に主の洗礼の祝日が祝われました(今年、日本の教会の典礼では、1月6日の主の公現の祭日を日曜日の1月7日に行い、主の洗礼は1月8日に記念しています)。教皇は、この日、午前10時からシスティーナ礼拝堂でささげられたミサの中で、13名の新生児(6名の女児と7名の男児)に洗礼を授けました。教皇による主の洗礼の日の新生児の洗礼は、ヨハネ・パウロ二世のときから恒例となったものです。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日は主の洗礼が祝われます。この主の洗礼の祝日で降誕節は終わります。典礼は聖ルカの記事(ルカ3・15-16、21-22参照)に従って、ヨルダン川でのイエスの洗礼の物語をわたしたちに示します。福音書記者ルカは語ります。イエスが、イエスに先立って来たヨハネの説教に引き寄せられた多くの人びととともに洗礼を受け、祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩の姿でイエスの上に降って来ました。そのとき、天から声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)。
 ヨルダン川でのイエスの洗礼は、すべての福音書記者によってさまざまなしかたで語られ、強調されています。実際、主の洗礼は使徒の宣教の一部をなしています。なぜなら、主の洗礼は、使徒たちがあかししたすべての出来事とことばの出発点だからです(使徒言行録1・21-22、10・37-41参照)。使徒の共同体は主の洗礼をとても大事なものと考えました。それは、この主の洗礼の場面で、歴史上初めて、はっきりと完全なしかたで三位一体の神秘が現されたためだけではありません。それは、この出来事によって、イエスの公生活がパレスチナの道で始まったためでもあります。
 イエスのヨルダン川での洗礼は、イエスの十字架上での血の洗礼の先取りです。それはまた、あがない主が人類の救いを実現する秘跡のわざの象徴でもあります。そのため、教父の伝統は主の洗礼の祝日に重大な関心を寄せました。主の洗礼の祝日は、復活祭に次いで古い祝日です。今日の典礼は歌います。「キリストの洗礼によって、世は聖なるものとされ、罪はゆるされた。わたしたちは水と聖霊によって新しい被造物となった」(教会の祈りの賛課、ザカリアの歌の答唱)。
 キリストの洗礼とわたしたちの洗礼の間には深い関係があります。救い主はわたしたちに救いへの道を開きました。そして、わたしたちは「水と霊によって」(ヨハネ3・5)新たに生まれたおかげで、この救いへの道を歩むことができます。この新たな誕生は洗礼において実現されます。ヨルダン川で天が開けたことは(ルカ3・21参照)、このことを示しているのです。わたしたちは洗礼によって、キリストの神秘的なからだである教会に導き入れられ、キリストとともに死に、キリストとともに復活し、キリストを着ます。使徒パウロがたびたび強調している通りです(一コリント12・13、ローマ6・3-5、ガラテヤ3・27参照)。ですから、洗礼から生じるわたしたちの務めは、イエスのことばを「聞く」ことです。すなわち、イエスを信じ、イエスに従って、イエスのみ旨、すなわち神のみ旨を忠実に行うことです。このようにして、わたしたちは皆、聖性に向かうことができます。第二バチカン公会議が述べているように、この聖性という目標は、洗礼を受けたすべての者の召命です。神の愛する子の母であるマリアの助けによって、わたしたちが自分たちの洗礼に常に忠実であることができますように。

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