第41回「世界広報の日(2007年5月13日)」教皇メッセージ

第41回「世界広報の日(2007年5月13日)」教皇メッセージ 子どもとメディア ― 教育における課題 親愛なる兄弟姉妹の皆様 1.第41回世界広報の日にあたり、「子どもとメディア ― 教育における課題」をテーマにして、 […]

第41回「世界広報の日(2007年5月13日)」教皇メッセージ
子どもとメディア ― 教育における課題

親愛なる兄弟姉妹の皆様

07sc1.第41回世界広報の日にあたり、「子どもとメディア ― 教育における課題」をテーマにして、互いに関連する極めて重要な二つの問題について皆さんとともに考えてみたいと思います。一つは子どもの育成であり、もう一つはメディアの育成という、少し漠然としているかもしれませんが見逃すことのできない問題です。
 今日教育が直面している複合的な難題の多くは、世界の至るところに見られるメディアの影響と結びついています。メディアはいまや、グローバリゼーション現象の一面として、また科学技術の急速な発展のおかげで文化環境に深く浸透しています(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『急速な発展-広報活動に携わる人びとへ』3参照)。確かに教育におけるメディアの影響力は、学校や教会に勝るとも劣らず、ことによると家庭の影響力に匹敵するものになっているとまでいわれています。また「たくさんの人が、現実はメディアが提供するものとまったく同じであると思う」(教皇庁広報評議会司牧指針『エターティス・ノーベ《新しい時代》』4)ようになっているのが現状です。

2.子どもとメディアと教育の関係は、メディアを利用した子どもの教育と、しかるべきメディア対応能力を子どもに授ける教育という二つの観点からとらえることができます。ここで見えてくるのが、ある種の相互作用です。つまりメディアの側に業界としての社会的責任があると同時に、読者や視聴者、聴取者の側も積極的かつ批判的にメディアにかかわる必要があるということです。そして、この関係が成立する枠組みの中で初めて、メディアを適切に利用した教育指導が、子どもの文化的、道徳的、霊的成長にとって不可欠なものになるのです。
 それでは、この社会の共通善をどのような方法で保護、促進するべきでしょうか。利用するメディアの内容の良し悪しを判断できるように子どもを教育するのは、親、教会、学校の責任です。その中で親の役割がまず重要です。親には、つねに節度ある賢明なメディア利用ができるよう子どもの良心を鍛える権利と義務があります。子どもが自ら健全で客観的な判断を下し、目にする番組・商品の取捨選択を適切に行えるように育てるのです(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭-愛といのちのきずな』76参照)。ただしそこには、親に対する学校や小教区教会からの励ましと援助が必要です。それによってこの困難でもやりがいのある子育ての一端が、家庭を包むより大きな共同体からつねに支援を受けられるようにすべきです。
 メディア教育は好ましい方向に進めなければなりません。美的にも道徳的にもすぐれたものに日頃から触れている子どもは、それだけ鑑賞力や思慮深さ、洞察力を伸ばすものです。その面で、親の模範の根本的な意義や、若いうちから古典児童文学や美術、高尚な音楽に触れさせることのよさをきちんと認識することが大切です。大衆文学は今後も文化の一部であり続けるでしょうが、そのやみくもに人の耳目を引こうとする誘惑を学びの場で無批判に受け入れてはなりません。聖性の鑑ともいうべき美が若い心と知性に霊感と生命力を与える一方で、醜悪なものや下品なものは、生活態度や品行にとって有害です。
 教育一般と同様に、メディア教育でも自由の行使のしかたを教える必要があります。これは大変な困難を伴う作業です。自由というと、享楽や新しい体験を執拗に追いかけることを指して使われるきらいがあります。しかしそれでは解放を味わうどころか、有罪の判決を受けるのも同然です。真の自由であるならば、飽くなき新奇性追求というとらわれに、人を、とくに子どもを追い込むはずがありません。真理に照らせば、まことの自由とは、人間を無条件に肯定する神のまなざしへの、ひとつの確かな応答として体験されるものであり、善・真・美なるものを気まぐれからではなく慎重な考慮の上で選び取るよう私たちを促すものです。そしてその自由の守護者たる親の役目は、子どもの裁量を少しずつ増やしてやりながら、子どもたちを人生の深い喜びへと導くことです(教皇ベネディクト十六世『第5回世界家庭大会におけるあいさつ』《2006年7月8日、スペイン・バレンシアにて》参照)。

3.美・真・善を子どもたちに教えたいという、親や教師のこの心からの願いをメディア産業が支援できるとすれば、唯一の方法は、基本的な人間の尊厳、結婚と家庭生活の真価、そして人類のすぐれた業績と望ましい目標について世界に訴えていくことです。だからこそ、今のメディアに必要なのは、業界内部の効果的な体制づくりと倫理規範の遵守に真摯に取り組むことであると、親や教師だけでなく、公共心を持つすべての人々が、特別な関心といらだちさえ覚えながら考えているのです。
 社会的な情報発信活動に携わる人々の多くは正しいことをしたいと思っている(教皇庁広報評議会『コミュニケーションにおける倫理』4参照)という意見を支持する一方で、私たちはこの分野で働く人々が「特別な心理的プレッシャーや倫理的ジレンマ」(『エターティス・ノーベ』19)に直面しているという事実も同時に認めなければなりません。これが原因で、営利競争にさらされている情報発信者が、やむなく倫理規準の低い方に流されるということが時々起こっています。エンターテインメントの名の下に暴力を礼賛し、反社会的な行動をありありと描写する、あるいは人間のセクシュアリティを軽んじて表現するようなアニメ、ビデオ・ゲームといった番組、商品を制作する志向は、すべて邪道であり、ましてそのような作品が子どもや青少年向けに流されていることを考えると、嫌悪を禁じえません。暴力や搾取、虐待に現実に苦しんでいる大勢の純真な若者たちの前で、これが「エンターテインメント」だなどとどうしていえるでしょうか。ここで、聖書にある二つの人物像を対比してみるのがよいでしょう。「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(マルコ10・16)キリストと、「これらの小さい者・・・・をつまずかせる」よりも「首にひき臼を懸けられ・・・・てしまう方がましである」(ルカ17・2)とされる人です。あらためてメディア産業の責任ある立場のかたがたにお願いします。制作に携わる人々を教育し励まして、彼らが社会の共通善を保護し、真実を支持し、一人ひとりの人間の尊厳を守り、家庭のニーズをもっと尊重するように働きかけてください。

4.神から救いのメッセージをゆだねられた教会自身もまた、いわば人類の教師なのですから、これを機会に親、教育者、情報発信者、そして若い人たちへの支援を喜んで行うつもりです。現代のメディア教育は、小教区と学校が最前線に立って行うべきでしょう。とりわけ教会は、人と人との価値あるコミュニケーション全体のかなめである、人間の尊厳というビジョンを担う存在でありたいと考えます。「(わたしは)キリストの目で見ることによって、外的に必要とされている以上のものを人に与えることが可能・・・・です。すなわちわたしは、人が求めている、愛のまなざしを与えることができます」(教皇ベネディクト十六世 回勅『神は愛』18)。

2007年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日に
バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

PAGE TOP