教皇ベネディクト十六世の82回目の一般謁見演説 聖パウロの協力者たち――バルナバ、シルワノ、アポロ

2007年1月31日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の82回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の30回目として、「聖パウロの協力者たち」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、「コリントの信徒への手紙一」3章5-8節が朗読されました。謁見には6000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 初期キリスト教の中心的な人物に関するわたしたちの考察の旅を続けます。今日わたしたちは聖パウロのその他の協力者たちに目を向けます。わたしたちは、使徒パウロが人の協力を得ることに対して開かれた人間の雄弁な模範であることを認めなければなりません。パウロは教会の中ですべてのことを自分ひとりで行おうとは望みませんでした。むしろ彼は多くのさまざまな同僚を用いました。
 こうした貴重な協力者の全員を考察することはできません。その数が多いからです。彼らの中で、エパフラス(コロサイ1・7、4・12、フィレモン23参照)、エパフロディト(フィリピ2・25、4・18参照)、ティキコ(使徒言行録20・4、エフェソ6・21、コロサイ4・7、二テモテ4・12、テトス3・12参照)、ウルバノ(ローマ16・9参照)、ガイオとアリスタルコ(使徒言行録19・29、20・4、27・2、コロサイ4・10参照)を思い起こすにとどめたいと思います。
 女性としては、フェベ(ローマ16・1参照)、トリファイナとトリフォサ(ローマ16・12参照)、ペルシス、ルフォスの母――ルフォスの母について聖パウロは「彼女はわたしにとっても母なのです」(ローマ16・12-13参照)と述べます――がいます。プリスカとアキラ(ローマ16・3、一コリント16・19、二テモテ4・19参照)のような夫婦も忘れてはなりません。
 今日、わたしたちはこれらの聖パウロの男女の協力者の大きな集団の中で、バルナバ、シルワノ、アポロという三人の人物に注意を向けます。彼らは初代教会の宣教において特別に重要な役割を果たしたからです。
 「慰めの子」(使徒言行録4・36)または「勧めの子」を意味する「バルナバ」は、キプロス島出身のユダヤ人でレビ人の添え名です。エルサレムに定住してから、彼は主の復活の後、最初にキリスト教を受け入れた者の一人となりました。
 大きな寛大さをもって、バルナバは所有する土地を売り、教会の必要のために使徒たちに献金しました(使徒言行録4・37参照)。バルナバはエルサレムのキリスト教共同体に対してサウロの回心の保証人となりました。エルサレムのキリスト教共同体は、かつての迫害者になおも不信の念を抱いていたからです(使徒言行録9・27参照)。
 シリアのアンティオキアに派遣されたバルナバは、タルソスでパウロを見つけ出します。パウロはタルソスに戻っていたからです。バルナバはパウロと一年を過ごした後、この重要な都市であるアンティオキアの宣教に献身します。アンティオキアの教会でバルナバは預言する者また教師として知られていました(使徒言行録13・1参照)。
 このようにしてバルナバは、異教徒が回心した最初の瞬間に、サウロの時が来たことを悟ったのでした。サウロは自分の生まれた町であるタルソスに帰っていました。バルナバはタルソスに行ってサウロを見つけ出しました。こうして、この重要な瞬間に、バルナバはいわばパウロを教会に復権させたのです。ある意味でバルナバは、異邦人の使徒をもう一度教会に与えたのでした。
 バルナバはアンティオキアの教会から、パウロとともに宣教に派遣されます。これがいわゆる使徒パウロの最初の宣教旅行となりました。実際にはそれはバルナバの宣教旅行でした。旅行の責任者はバルナバであり、パウロは協力者としてバルナバに同行したからです。彼らはキプロスやアナトリアの中南部地方、すなわち現在のトルコを通り、アタリア、ペルゲ、ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベの町に行きました(使徒言行録13-14参照)。
 その後バルナバはパウロとともにいわゆるエルサレム会議に行きました。このエルサレム会議で、使徒たちと長老たちは問題を詳しく検討した後、キリスト者であることと割礼を行うことを切り離すことを決定しました(使徒言行録15・1-35参照)。
 こうしてついに初めて彼らは、異邦人の教会、すなわち割礼を伴わない教会が存在することを公式に可能にしました。わたしたちはただキリストへの信仰のみにおいてアブラハムの子なのです。
 後にパウロとバルナバの二人は、第二回宣教旅行の初めに対立します。バルナバがマルコと呼ばれるヨハネを連れて行きたいと考えたのに対して、パウロは、この若者が前の旅行で自分たちから離れたことを理由に、それを望まなかったからです(使徒言行録13・13、15・36-40参照)。
 ですから、聖人たちの間にも対立や不和や論争があるのです。このことはわたしに大きな慰めを与えます。わたしたちは聖人たちが「天から落ちてきた」のではないことを知っているからです。
 聖人たちも、わたしたちと同じように複雑な問題を抱えた人間です。聖性は、失敗をしないこと、罪を犯さないことのうちにあるのではありません。聖性は、回心し、悔い改め、進んでもう一度やり直す力によって、何よりも和解とゆるしの力によって成長するのです。
 こうして、マルコに対してある程度辛辣(しんらつ)で不快な気持ちを抱いたパウロも、ついにはマルコと再会します。聖パウロの最後の手紙であるフィレモンへの手紙とテモテへの手紙二の中で、マルコは「わたしの協力者」として現れます。
 わたしたちを聖人にするのは、罪を犯さないことではなく、和解し、ゆるすことのできる力です。またわたしたちは皆、この聖性への道を学ぶことができます。いずれにせよ、バルナバはマルコと呼ばれるヨハネとともに、49年頃、キプロス島に戻りました(使徒言行録15・39参照)。
 この時から、バルナバの足跡は途絶えます。テルトゥリアヌスはヘブライ人への手紙がバルナバによって書かれたとしています。それはありえないことではありません。バルナバはレビ人として、祭司職というテーマに関心をもつことがありえたからです。ヘブライ人への手紙はイエスの祭司職の意味を特異なしかたでわたしたちに説明します。
 もう一人のパウロの同伴者である「シラス」は、ヘブライ語の名前(おそらく「求める、願う」を意味する「シェアル」。これは「サウル」という名前と同じ語根)のギリシア語形です。そこからラテン語形の「シルワノ」が生じました。
 シラスという名前は使徒言行録でのみ言及されるのに対して、シルワノという名前はパウロの手紙の中に現れます。シラスはエルサレム出身のユダヤ人で、最初にキリスト者となった者の一人であり、エルサレム教会の中で大いに重んじられていました(使徒言行録15・22参照)。彼は預言する者とされていたからです(使徒言行録15・32参照)。
 シラスは「アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む兄弟たち」(使徒言行録15・23)にエルサレム会議の決定を伝え、また説明するために派遣されました。
 シラスが、エルサレムとアンティオキア、すなわちユダヤ人キリスト者と異邦人出身のキリスト者の間の一種の仲介を果たすことができると考えられたことは間違いありません。こうしてシラスは、典礼と起源の異なる教会の一致のために奉仕しました。
 パウロはバルナバと別れたとき、このシラスを旅の新しい同伴者としました(使徒言行録15・40参照)。シラスはパウロとともにマケドニア州(フィリピ、テサロニケ、ベレアの町)に行きました。シラスがマケドニア州にとどまったのに対して、パウロは続いてアテネと、後にコリントに行きました。
 シラスはコリントでパウロと合流し、そこで福音の宣教に協力しました。実際、コリントの信徒への手紙二の中で、パウロは「わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた・・・・イエス・キリスト」(二コリント1・19)と述べます。
 これは、なぜシラスがパウロとテモテとともに、二つのテサロニケの信徒への手紙の共著者とされているかを説明してくれます。
 わたしにはこのことも大事なことだと思われます。パウロは「独奏者」、すなわちたんなる個人としてでなく、教会という「わたしたち」のこのような協力者とともに行動しました。
 このパウロの「わたし」は、孤独な「わたし」ではなく、教会という「わたしたち」、すなわち使徒的信仰という「わたしたち」の中の「わたし」です。
 シルワノはペトロの手紙一の終わりでも言及されます。次のように書かれています。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書きました」(一ペトロ5・12)。
 ここにわたしたちは使徒たちの交わりをも見いだします。シルワノはパウロに仕え、ペトロに仕えました。教会は唯一であり、宣教者の行う宣教も唯一だからです。
 今日わたしたちが思い起こしたい三人目のパウロの同伴者は、「アポロ」と呼ばれる人です。「アポロ」はおそらくアポロニオスまたはアポロドロスの短縮形です。異邦人の特徴をもつ名前にもかかわらず、アポロはエジプトのアレクサンドリアの熱心なユダヤ人でした。
 ルカは使徒言行録の中でアポロを「聖書に詳しい・・・・雄弁家」で「熱心」(使徒言行録18・24-25)な人と述べます。
 初期の宣教の舞台へのアポロの登場は、エフェソの町で行われました。アポロはこの町に来て宣教し、運命的なしかたで、プリスキラとアキラというキリスト者の夫婦と出会いました(使徒言行録18・26参照)。二人はアポロをもっと正確な「神の道」(使徒言行録18・26参照)の理解へと導きました。
 アポロはエフェソからアカイア州に渡り、コリントの町に行きました。アポロは、アポロを歓迎してくれるようにと、コリントの人びとに依頼するエフェソのキリスト者たちの手紙に助けられて、コリントに到着しました(使徒言行録18・27参照)。
 ルカの記述によれば、アポロはコリントで「すでに恵みによって信じていた人びとを大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい口調でユダヤ人たちを説き伏せたからである」(使徒言行録18・27-28)。
 しかし、コリントの町でのアポロの成功は問題を引き起こしました。アポロの話し方の影響を受けたコリントの教会に属するある人びとが、アポロの名前のもとに他の人たちと対立したからです(一コリント1・12、3・4-6、4・6参照)。
 パウロはコリントの信徒への手紙一の中で、アポロの仕事を評価しつつ、対立する党派に分かれてキリストのからだを分裂させたことについてコリントの信徒たちをとがめます。
 パウロはそこで生じた出来事から重要な教訓を引き出します。パウロはいいます。わたしもアポロも「仕えた者(ディアコノイ)」、すなわち、あなたがたを信仰に導くための奉仕者にすぎません(一コリント3・5参照)。
 各人が主の畑において異なる任務をもっています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。・・・・わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(一コリント3・6-9)。
 アポロはエフェソに帰ると、すぐにコリントに戻るようにとのパウロの招きに従わず、旅を後日に延期します。この旅についてわたしたちは知りません(一コリント16・12参照)。
 アポロについてこれ以上のことは伝えられていません。ただしある研究者はアポロがヘブライ人への手紙の著者の可能性があると考えます。テルトゥリアヌスは、ヘブライ人への手紙の著者がバルナバだとしたのですが。
 今述べた三人は、それぞれの独自の特徴だけでなく、共通の特徴によっても、福音のあかしの世界で輝いています。彼らは、ユダヤ人出身というだけでなく、共通して、イエス・キリストと福音に身をささげました。彼らはまた三人とも、使徒パウロの協力者でした。
 この最初の福音宣教を行う中で、彼らは人生の意味を見いだしました。こうして彼らはわたしたちにとって、自らを顧みず寛大であることの輝く模範となりました。
 終わりに聖パウロのことばをもう一度深く考えたいと思います。アポロもわたしも、それぞれのしかたでイエスに仕える者です。なぜなら、成長させてくださるのは神だからです。このことばは、今も、教皇も枢機卿も司教も司祭も信徒も含めた、すべての人に当てはまります。
 わたしたちは皆、つつましくイエスに仕える者です。わたしたちは、自分のたまものに従って、できる限りのしかたで福音に仕えます。そして、今日も、イエスの福音とイエスの教会を成長させてくださるよう、イエスに祈り求めるのです。

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