教皇ベネディクト十六世の85回目の一般謁見演説 四旬節の意味について

2007年2月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の85回目の一般謁見が行われました。 教皇はまずサンピエトロ大聖堂でイタリアの学生たちとの謁見を行いました。そ […]

2007年2月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の85回目の一般謁見が行われました。
教皇はまずサンピエトロ大聖堂でイタリアの学生たちとの謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、この日の灰の水曜日から四旬節が始まるにあたって、「四旬節の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、「ヨハネの手紙一」2章1-2節が朗読されました。パウロ六世ホールでの謁見には10,000人の信者が参加しました。
この日教皇は、午後4時半からアヴェンティーノ丘のサンタンセルモ教会で祈りの集いを行った後、サンタ・サビナ聖堂まで悔い改めの行列を行い、同聖堂で灰の式を含むミサを司式しました。
なお、四旬節第一主日の2月25日(日)から教皇と教皇庁の四旬節の黙想会が行われます。黙想会は教皇庁のレデンプトーリス・マーテル聖堂で午後6時から、晩の祈りと最初の黙想と聖体礼拝と聖体賛美式をもって開始されます。今年の黙想会のテーマは「上にあるもの」です。黙想会を指導するのはボローニャ名誉大司教のジャコモ・ビッフィ枢機卿(78歳)です。黙想会のスケジュールは以下の通りです。午前9時から朝の祈りと黙想。午前10時15分から三時課と黙想。午後5時から黙想。午後5時45分から晩の祈りと聖体礼拝と聖体賛美式。黙想会は3月3日(土)午前9時の朝の祈りと結びの黙想をもって終了します。黙想会中、2月28日の一般謁見を含めてすべての謁見は行われません。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちが行う灰の水曜日は、わたしたちキリスト信者にとって特別な日です。この日は深い精神の集中と内省の精神によって特徴づけられるからです。実際、わたしたちは四旬節の旅路を始めます。この四旬節は神のことばに耳を傾け、祈りと悔い改めを行う時です。この40日の間、典礼はわたしたちが救いの神秘の重要な段階を再体験するのを助けてくれます。
 ご存知のように、人間は神の友となるために創造されました。しかし人祖の罪はこの信頼と愛に基づく関係を壊しました。その結果、人類はその最初の召命を実現することができなくなりました。
 しかしながら、キリストのあがないをもたらすいけにえのおかげで、わたしたちは悪の力から解放されました。使徒ヨハネはこう述べます。実際、キリストはわたしたちの罪を償ういけにえです(一ヨハネ2・2参照)。聖ペトロはこう付け加えます。キリストは罪のためにただ一度苦しまれました(一ペトロ3・18参照)。
 洗礼を受けた者も、キリストとともに罪に死ぬことによって、新たないのちに生まれ、神の子としての尊厳を無償で回復させられます。そのため、初期キリスト教共同体において洗礼は「第一の復活」(黙示録20・5、ローマ6・1-11、ヨハネ5・25-28参照)と考えられるようになりました。
 ですから四旬節は、最初から、洗礼の直前の準備期間として過ごされました。洗礼は復活徹夜祭に荘厳なしかたで授けられるからです。四旬節全体は、このキリストとのすばらしい出会いに向かう旅路です。わたしたちはキリストに浸され、いのちを新たにされるのです。
 わたしたちはすでに洗礼を受けていますが、洗礼がわたしたちの日常生活の中で十分に生かされていないこともしばしばあります。ですから四旬節はわたしたちにとっても「洗礼志願期」の更新となります。この期間中、わたしたちは洗礼を深い意味で再発見また再体験し、あらためてほんとうの意味でのキリスト信者となるために、もう一度わたしたちの洗礼に向かい合おうとします。
 それゆえ四旬節は、内面を変化させ、キリストを知り、愛することにおいて成長するための絶えざる過程を通じて、「もう一度」キリスト信者になるためのよい機会です。回心は一度だけ行われることではありません。回心は過程であり、わたしたちが全生涯をもって行う内的な旅路です。もちろんこの回心の歩みは一年の特定の時期に限られるものであってはなりません。それは日々の旅路であり、生活の全領域、すなわち、わたしたちの生涯のすべての日々を含むからです。
 このように見ると、四旬節は、全キリスト信者と全キリスト教共同体にとって、神を探し求め、キリストに向けて心を開くための粘り強い鍛錬を行うのにふさわしい霊的な時期だといえます。
 聖アウグスチヌスはあるときこういっています。わたしたちの人生は、神に近づき、神にわたしたちの存在の中に入っていただけるようにしたいという望みを果たすことだけだと。聖アウグスチヌスはいいます。「熱心なキリスト信者の全生涯は、聖なる望みです」。そうであれば、わたしたちは四旬節の間、いっそう「わたしたちの望みから虚栄の根を」引き抜くよう促されます。それは望みへと、すなわち神を愛することへと心を導くためです。聖アウグスチヌスはいつもこういいます。「神(かみ)、この二音節がわたしたちの望みのすべてです」(『ヨハネ福音書講解説教』4参照)。わたしたちも願います。わたしたちがほんとうに神を望み、こうして真のいのちである愛そのものと真理を望み始めることができますように。
 福音書記者マルコが伝えるイエスの勧めは、とりわけこの時期にふさわしいものです。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)。心からの神への望みは、悪を避け、善を行うようわたしたちを導きます。このような回心は何よりも神が無償で与えてくださるたまものです。神はわたしたちをわたしたち自体のために創造し、イエス・キリストによってあがなってくださったからです。わたしたちの幸いはイエス・キリストにつながっていることの内にあります(ヨハネ15・3参照)。そのために、イエス・キリストご自身がわたしたちの望みに先立って恵みを与え、回心に努めるわたしたちとともにいてくださいます。
 ところで回心するとは実際にどういうことなのでしょうか。回心するとは、神を探し求め、神とともに歩み、御子イエス・キリストの教えに忠実に聞き従うことです。回心するとは自分で自己実現しようと努めることではありません。人間は自分の永遠の定めを造り出すことができないからです。わたしたちは自分で自分を造り出すのではありません。ですから、自己実現は矛盾であり、またわたしたちにとってあまり意味がないものです。わたしたちにはもっと高い目的があります。
 わたしたちはこういうことができます。回心とはまさに自分を自分の「造り主」と考えないこと、そしてそれによって真理を見いだすことの内にあると。なぜならわたしたちは自分自身を造り出すのではないからです。回心とは、わたしたちが真の造り主である神に完全により頼む者であること、すなわち愛により頼む者であることを、自由に愛をもって受け入れることです。このようにより頼むということは、依存ではなく、解放です。
 ですから、回心するとは自分の個人的な成功を追求せず(個人的な成功は過ぎ去るものだからです)、むしろすべての人間的な安定を捨てて、単純に信頼をもって主に従うことです。そうすれば、コルカタの福者テレサがよくいっていたように、イエスはすべての人にとって「すべてにおいてわたしのすべて」となります。イエスにとらえられた人は皆、自分のいのちを失うことを恐れません。なぜなら、イエスは十字架上でわたしたちを愛して、わたしたちのためにご自身をささげてくださったからです。そして、わたしたちは愛のために自分のいのちを失うことによって、それを再び見いだします。
 わたしは数日前に発表した「四旬節メッセージ」の中で、神がわたしたちに対して深い愛を抱いておられることを強調したいと望みました。それは、すべての共同体のキリスト信者が、四旬節の間、マリアと愛する弟子ヨハネとともに、十字架上で人類のためにご自分のいのちをいけにえとしてささげ尽くしたかたの前に霊的にとどまることができるようにするためでした(ヨハネ19・25参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。まことに十字架は、わたしたち現代の人間にとっても、神の愛とあわれみの決定的な啓示です。たとえわたしたちが、あまりにもしばしば地上の一時的な心配と関心によってそれに気づかずにいたとしてもです。神は愛です。そして神の愛がわたしたちの幸福の秘訣です。けれども、この愛の神秘に入るためには、わたしたちを失い、わたしたちをささげる道、すなわち十字架の道を通るほかありません。
 主はいわれます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)。そのため四旬節の典礼は、わたしたちを内省と祈りへと招きながら、悔い改めと犠牲を大事にするようにわたしたちを促します。それは、罪と悪を退け、利己主義と無関心に打ち勝つためです。こうして祈りと断食と悔い改めと兄弟に対する愛のわざは、わたしたちが神に立ち戻るために歩むべき霊的な道となります。このようにしてわたしたちは、今日の典礼でも述べられる、度重なる回心への招きにこたえます(ヨエル2・12-13、マタイ6・16-18参照)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日わたしたちがおごそかで意義深い灰をかける式によって始める四旬節の期間が、すべての人にとって、キリストのあわれみ深い愛をあらためて体験する時となりますように。キリストは十字架上でわたしたちのために血を流されたからです。
 素直な心でキリストの学びやに入ろうではありませんか。それはわたしたちがキリストの愛を、隣人に、特に大きな苦しみと困難の内にある隣人に「与え返す」ためです。これがすべてのキリストの弟子の使命です。しかしこの使命を果たすために、キリストのことばに耳を傾け、熱心にキリストのからだと血で養われることが必要です。古代教会において、四旬節の歩みはキリスト教入信に、すなわち洗礼と聖体に向かう歩みでした。この四旬節の歩みが、わたしたち洗礼を受けた者にとって、「聖体に生かされた」時となりますように。この時期にわたしたちは大きな熱意をもって聖体のいけにえにあずかるからです。
 神なる御子の受難の悲しみにあずかった後、復活の喜びを味わったおとめマリアが、過越の神秘に向かうこの四旬節の間、わたしたちとともに歩んでくださいますように。過越の神秘は神の愛の最高の啓示だからです。
 皆様すべてにとってよい四旬節となりますように。

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