教皇ベネディクト十六世の2007年2月25日の「お告げの祈り」のことば 四旬節第一主日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第一主日である2月25日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
なお、この日2月25日(日)から3月3日(土)まで教皇と教皇庁の四旬節の黙想会が行われます。今年の黙想会のテーマは「上にあるもの――『あなたがたは・・・・上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい』(コロサイ3・1-2)」です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今年の「四旬節メッセージ」はヨハネによる福音書のことばからテーマをとっています。このことばは救い主に関するゼカリヤの預言にもとづくものです。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19・37)。キリストのわき腹を槍が突き刺すと、血と水が流れ出ました。イエスの母マリアと他の婦人たちとともにカルワリオ(されこうべの場所)にいた愛する弟子は、それを目撃しました(ヨハネ19・31-34参照)。その後忘れ去られた無名のローマ兵が行ったこの行為は、使徒の目と心に刻まれました。こうして使徒はそれを福音書に記しました。幾世紀を通じて、十字架につけられたイエスを仰ぎ見る者が受ける、この雄弁な愛の知らせによって、どれほど多くの回心が行われたことでしょうか。
 それゆえわたしたちは、イエスのわき腹をじっと見つめながら四旬節に入ります。「神は愛です」(一ヨハネ4・8、16)。回勅『神は愛』(12参照)の中で、わたしは、わたしたちのために十字架上で死んだイエスを仰ぎ見ることによって、初めてわたしたちはこの根本的な真理を知り、観想できることを強調したいと望みました。回勅が述べる通り、「この観想の内に、キリスト信者は、自分が生き、愛するための道を見いだすのです」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』12)。信仰の目によって十字架につけられたかたを仰ぎ見ることによって、わたしたちは罪とは何であるか、また罪の重みがどれほど悲惨なものであるかを、同時に、主のゆるしと憐れみがはかり知れないほど力強いことを深く悟ることができます。この四旬節の日々の間、この人間性の深みと霊性の高みの神秘から心をそらさないようにしようではありませんか。キリストを見つめながら、同時にキリストもまたわたしたちを見つめていることを感じようではありませんか。わたしたちの罪によってわたしたち自身が刺し貫いたかたは、汲み尽くしえない憐れみ深い愛の流れをうむことなく世に注ぎます。すべての人が絶えず探し求めている平和と幸福を築くために欠くことのできない、霊的な力を得ることができるのは、この泉からだけだということを、人類が悟ることができますように。
 御子の十字架のそばで心を刺し貫かれたおとめマリアに、わたしたちが堅固な信仰の恵みを与えられるよう祈りましょう。おとめマリアが四旬節の旅路においてわたしたちを導き、キリストとその救いのことばに耳を傾けることを妨げるすべてのものから離れることができるように、わたしたちを助けてくださいますように。特にわたしは、一週間の黙想をおとめマリアに委ねます。この黙想会は、今日の午後からバチカンで始まり、わたしは教皇庁のわたしの協力者のかたがたとともにそれに参加します。親愛なる兄弟姉妹の皆様。皆様が祈りによってわたしたちとともに歩んでくださることをお願いします。わたしも黙想会で精神を集中させながら、喜んで同じことを皆様のために行います。そして、皆様一人ひとりと、皆様のご家族と共同体の上に神の力を祈り求めます。

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