教皇ベネディクト十六世の2007年3月4日の「お告げの祈り」のことば 四旬節第二主日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第二主日である3月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイ […]

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第二主日である3月4日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べて、前日の3日(土)まで行われた教皇庁の黙想会のために祈りをささげた信者に感謝を表しました。
「この数日間の黙想会の間、祈りによってわたしとともに歩んでくださったかたがたに感謝したいと思います。四旬節にあたり、沈黙と精神集中を求めることをすべてのかたがたに勧めます。それは、祈りと神のことばの黙想に、より多くの時間を用いるためです」。
続いて教皇は、3月10日(土)に予定されている、衛星中継を通じた世界の大学生の対話の集いについて、次のように述べました。
「わたしは今週の3月10日の土曜日の午後4時に、パウロ六世ホールで、ローマの大学生の青年のためのマリアへの夕の祈りを主宰します。この夕の祈りには、ラジオとテレビ中継によってヨーロッパとアジアの諸国の多くの学生も参加します。『上智の座』であるマリアの執り成しを願いたいと思います。主がヨーロッパ大陸とアジア大陸と全世界で愛の文明を築くために、福音の真理の証人たちを遣わしてくださいますように」。
3月10日に行われる夕の祈りには、以下の諸都市の学生が衛星中継を通じて参加します。ボローニャ(イタリア)、コルカタ(インド)、コインブラ(ポルトガル)、クラクフ(ポーランド)、香港(中国)、マンチェスター(イギリス)、マニラ(フィリピン)、プラハ(チェコ)、ティラナ(アルバニア)、トリノ(イタリア)、イスラマバード(パキスタン)。集いの終わりに、教皇は5時から学生たちとともにロザリオを唱え、栄えの神秘を黙想する予定です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の四旬節第二主日に、福音書記者ルカは次のことに注目しています。イエスは使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネとともに「祈るために」(ルカ9・28)山に登られました。「祈っておられるうちに」(ルカ9・29)、イエスの変容という輝かしい神秘が示されました。それゆえ、三人の使徒にとって、山に登ることはイエスの祈りに参加することを意味しました。イエスはしばしば、特に明け方と日没後、ときには夜中、祈るために退きました。しかし、この場合だけは、イエスは山上で、ご自分が祈っているときにご自分を満たしている内的な光をご自分の友に示すことを望みました。福音書にはこう書かれています。イエスの顔は輝き、服は、受肉したみことばとしての神の位格の輝きを映し出しました(ルカ9・29参照)。
 聖ルカの記述に詳しく語られるもう一つのことにも注目しなければなりません。聖ルカはイエスが話していた相手がモーセとエリヤだったことを示しています。この二人は変容したイエスのそばに現れました。福音書記者ルカはいいます。二人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(ギリシア語「エクソドス」)について話していた」(ルカ9・31)。したがってイエスは、ご自分の死と復活について語る律法と預言者に耳を傾けていました。もちろんイエスは、栄光に至るために十字架を通らなければならないことを知っておられました。それでもイエスは、御父と親密な対話を行う際に、歴史から離れることも、自分がそのために世に遣わされた使命から逃れることもありませんでした。そればかりか、キリストはこの使命にいっそう深く関わりました。それは自分の全存在を御父のみ心と一致させることによってです。こうしてキリストは、真の祈りとはわたしたちの意志を神の意志と一致させることにほかならないということをわたしたちに示しました。ですからキリスト信者にとって、祈りは、現実と現実に伴う責任から逃れることではなく、主の忠実で尽きることのない愛に信頼しながら、この現実を最後まで受け入れることです。だからこそ、逆説的にも、変容の証明はゲツセマネの苦しみなのです(ルカ22・39-46参照)。受難が近づいたとき、イエスは死の苦悩を味わい、神のみ旨にご自身を委ねました。このときイエスの祈りは、わたしたち皆の救いの保証でした。実際、ヘブライ人への手紙の著者が述べているように、キリストは天の父にご自身を「死から救う」ことを願うこともできました。こうしてキリストは「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5・7)。復活はキリストが聞き入れられたことの証明です。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。祈りは二次的なものでも、任意のものでもなく、むしろ生か死かの問題です。実際、祈る者だけが、すなわち子としての愛をもって神に身を委ねる者だけが永遠のいのちに入ることができます。永遠のいのちとは神ご自身だからです。この四旬節の間、受肉したみことばの母であり、霊的生活の教師であるマリアに祈りましょう。マリアが、御子がしたのと同じように祈ることをわたしたちに教えてくださいますように。こうしてわたしたちの生活がわたしたちとともにいてくださる御子の光によって造り変えられますように。

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