教皇ベネディクト十六世の86回目の一般謁見演説 ローマの聖クレメンス

2007年3月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の86回目の一般謁見が行われました。 教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、教皇庁定期訪問を行っているイタリア北西部ピ […]

2007年3月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の86回目の一般謁見が行われました。
教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、教皇庁定期訪問を行っているイタリア北西部ピエモンテ州の司教協議会の司教たちに伴われた、ピエモンテ州の諸教区の信者とイタリアの学生たちとの謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の33回目として、「ローマの聖クレメンス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。なお、この日から新たに使徒教父についての連続講話が始まりました。
演説に先立って、「コリントの信徒への手紙一」12章12-13節が朗読されました。パウロ六世ホールでの謁見には16,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 これまでの数か月間、わたしたちは新約聖書の文書の中で述べられた一人ひとりの使徒とキリスト教信仰の最初の証人たちの姿について考察してきました。これからわたしたちは使徒教父に注意を向けます。使徒教父は使徒以後の教会の第一・第二世代の人びとです。こうしてわたしたちは、歴史の中で教会の歩みがどのように始まったかを知ることができます。
 1世紀末のローマの司教聖クレメンスは、リノとアナクレトに次ぐペトロの三代目の後継者です。クレメンスの生涯に関する最も重要な証言は、202年までリヨンの司教を務めた聖イレネオによるものです。イレネオはこう述べます。クレメンスは「あの使徒たちを見たこともあり、また彼らに会ったこともある人であって」、「使徒たちの宣教がまだ耳に残っており、(使徒たちの)伝承が目前にあった」(『異端反駁』:Adversus haereses 3, 3, 3〔小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ エイレナイオス3』教文館、1999年、10頁〕)。4世紀から6世紀の後代の証言はクレメンスに殉教者の称号を与えています。
 このローマの司教の権威と名声のゆえに、さまざまな著作がクレメンスのものとされました。しかし、確実にクレメンスの著作といえるのは「クレメンスの手紙 コリントのキリスト者へ」だけです。初期キリスト教の偉大な「記録係」であるカイサレイアのエウセビオスはこの手紙を次のように示します。「真正なものと認められるクレメンスの一つの手紙が伝えられている。それは長文の驚くべき手紙である。クレメンスはこの手紙をローマの教会からコリントの教会に宛てて書いた。・・・・わたしたちは、それが長い間、また今も、信者の集会で公に読まれていることを知っている」(『教会史』:Historia ecclesiastica 3, 16)。この手紙には正典に準じた性格が与えられました。ギリシア語で書かれたテキストの初めに、クレメンスは「次々と降り懸かってきた不運や災難のために」(1・1〔小河陽訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、57頁〕)返事が遅れたことを詫びています。この「不運や災難」はドミティアヌスの迫害と考えることができます。ですからこの手紙が書かれた年代はドミティアヌス帝の死の直後から迫害の終焉まで、すなわち96年の直後までさかのぼります。
 これはまだ1世紀のことです。クレメンスの介入は、コリントの教会で深刻な問題が生じたために求められました。実際、共同体の司祭が一部の反対する若者たちによって追放されました。再び聖イレネオはこの辛い出来事を記録しています。イレネオはこう述べます。「このクレメンスの時に、コリントの兄弟たち(の間)に少なからざる内紛が生じたので、ローマの教会はふさわしい手紙をコリントの人びとに送り、(これによって)彼らを和解させ、彼らの信仰を新たにし、使徒たちからつい受けたばかりの伝承を告げようとした」(『異端反駁』:Adversus haereses 3, 3, 3〔前掲邦訳10頁〕)。それゆえわたしたちはこの手紙が聖ペトロの死後行われた、ローマの首位権の最初の行使だということができます。聖パウロはコリントの信徒に二つの長い手紙を書きました。クレメンスの手紙は、この聖パウロによく現れるテーマ、特に、救いの「教え」と道徳的な務めの「命令」の間の神学的な弁証法という、変わることなく存在するテーマに触れます。何よりもまず行われるのは、救いの恵みの知らせです。主はわたしたちをあらかじめご覧になり、わたしたちにゆるしと、ご自分の愛と、キリスト信者すなわちご自身の兄弟姉妹となる恵みを与えます。この知らせがわたしたちの人生を喜びで満たし、わたしたちのわざに確信を与えます。主は常にいつくしみをもってわたしたちのわざをご覧になります。そして主のいつくしみは常にわたしたちの罪よりも大きいのです。しかしわたしたちはこの与えられた恵みによって一貫したしかたで献身しなければなりません。そして、この救いのしらせに、寛大で勇気ある回心の歩みをもってこたえなければなりません。クレメンスはパウロの模範を守りますが、その新しいところは、パウロの手紙の全体をなす教えに関する部分と実践に関する部分に「偉大な祈り」が続くことです。この「偉大な祈り」が実際に手紙を締めくくります。
 直接手紙を書く機会を与えられることにより、このローマの司教は、教会とその使命の独自性に関して幅広く論じることが可能になりました。クレメンスはいいます。もしコリントに不法な行いがあるのなら、その理由は、愛を初めとするキリスト教的な徳が弱まったことに見いださなければなりません。そのためクレメンスは信者を謙遜と兄弟愛へと招きます。まことにこの二つの徳は教会に属することの基盤だからです。クレメンスは勧めます。「わたしたちは聖なるおかたの持分なのだから、あらゆる聖化のわざを行おうではないか」(30・1〔前掲邦訳73頁〕)。このローマの司教は特に思い起こします。「献げ物と礼拝・・・・がどこでまた誰によって遂行されることをお望みかは、(主)ご自身その至高の意志で定められた。それはすべてのことが彼の嘉(よみ)されるうちに敬虔に行われるためであり、彼の意志に快く受け入れられるためである。・・・・大祭司には彼独自の務めが与えられており、祭司には祭司独自の役職が割り当てられており、レビ人にはレビ人独自の奉仕が課せられている。一般信徒には一般信徒に向けられた命令が与えられている」(40・1-5〔邦訳78-79頁〕。ここで注意していただきたいのは、1世紀末のこの手紙の中で、キリスト教文書で初めてギリシア語の「ライコス」(一般信徒)と言うことばが用いられることです。「ライコス」は「ラオス――すなわち「神の民」――に属する者」を意味します)。
 このようにして、クレメンスは古代イスラエルの典礼を参照しながら、彼にとっての教会の理想像を示します。教会は「わたしたちの上に注がれた一つの恵みの霊」によって集められます。この霊はキリストのからだのさまざまな肢体の中で息吹きます。このキリストのからだの中で、すべての者は、少しも分裂することなく結び合わされながら、「互いに一つのからだの肢体」なのです(46・6-7)。「信徒」と聖職位階の明確な区別は、けっして対立を意味するのではなく、ただこのからだの有機的なつながりを表すにすぎません。からだはさまざまな機能をもった有機体だからです。実際、教会は、その中で誰かが好きな時に望むことを行うことができるような、混乱と無秩序の場所ではありません。はっきりとした構造を備えたこの有機体の中で、一人ひとりの人は与えられた召命に従ってその務めを果たします。共同体の頭について、クレメンスははっきりと使徒継承の教えを説明します。このことを定めた法は、究極的に神ご自身に由来します。御父はイエス・キリストを遣わし、イエス・キリストは使徒たちを派遣しました。それから使徒たちは共同体の最初の頭を派遣し、ふさわしい人がこれらの頭の後を継ぐように定めました。それゆえ、すべてが「神の意志により、すばらしい順序に従って」(42〔邦訳79頁〕)生じます。このようなことばと言い方によって、クレメンスは、教会が政治的な構造ではなく、秘跡的な構造をもつことを強調します。神が典礼の中でわたしたちに対して行うわざは、わたしたちの決定や考えに先立ちます。教会は何よりも神のたまものであり、わたしたちが造り出したものではありません。ですからこの秘跡的な構造は、共通の秩序を保証するだけではありません。それは、わたしたち皆が必要とする神のたまものが先立って与えられることも保証するのです。
 最後に、「偉大な祈り」はここまでの議論に対して宇宙的な息吹きを与えます。クレメンスは、愛に基づく驚くべき摂理のゆえに神に賛美と感謝をささげます。神は世界を創造し、この世界を救い、聖化し続けてくださるからです。特に重要なのは統治者たちのための祈願です。新約聖書の文書以後、これは最古の政治組織のための祈りです。こうして、キリスト信者は迫害の直後に、迫害が続くことを十分自覚しながら、自分たちを不正なしかたで罪に定めた権力のために祈ることをやめませんでした。その理由は何よりもキリストによるものです。わたしたちはイエスが十字架上でしたのと同じように、迫害する者のために祈らなければならないからです。しかしこの祈りは、何世紀もの間、政治と国家に対してキリスト信者がとった態度を導いた教えをも含むものでなければなりません。権力者のために祈るとき、クレメンスは神が定めた秩序における政治制度の正当性を認めます。同時にクレメンスは、権力者が神のことばに従い、「神によって与えられた権威を、平和と柔和のうちに敬虔に執行する」(61・2)ようにという願いを示します。皇帝がすべてではありません。もう一人の支配権が現れます。その起源と存在はこの世のものではなく、「天から」のものです。それは真理に基づく支配権です。その支配権は、たとえ国家と対立してもわたしたちがこれに従う権利を有します。
 こうしてクレメンスの手紙は、現実的な意味をもち続ける数多くのテーマを扱います。この手紙は、1世紀以来のローマ教会の関心を表しているために、いっそう重要です。ローマ教会は愛において他のすべての教会を主宰したからです。わたしたちも同じ霊をもって「偉大な祈り」の祈願を行いたいと思います。この「偉大な祈り」の中でローマの司教は全世界の声となるからです。「主よ、平和の恵みのために、あなたの顔をわたしたちの上に輝かしてください。わたしたちが、あなたの力強いみ手によって守られるためです。・・・・あなたを、わたしたちは大祭司かつわたしたちの魂の警備人なるイエス・キリストを通してほめたたえます。このキリストを通して、栄光と威厳とが、今も、また世代から世代、永遠から永遠に、あなたにありますように、アーメン」(60-61〔前掲邦訳89-90頁〕)。

PAGE TOP