教皇ベネディクト十六世の87回目の一般謁見演説 アンティオキアの聖イグナチオ

2007年3月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の87回目の一般謁見が行われました。
この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の34回目として、「アンティオキアの聖イグナチオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書15章4-5節が朗読されました。謁見には約25,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 先週の水曜日と同じく、初代教会の人物についてお話しします。先週は聖ペトロの三代目の後継者である教皇クレメンス一世についてお話ししました。今日、わたしは聖イグナチオについてお話しします。聖イグナチオは、70年から殉教する107年までシリアのアンティオキアの第3代司教を務めました。当時、ローマとアレクサンドリアとアンティオキアはローマ帝国の三大都市でした。ニケア公会議は三つの「首位権」について述べています。すなわち、ローマの首位権と、またある意味でこの「首位権」にあずかるアレクサンドリアとアンティオキアの首位権です。聖イグナチオはアンティオキアの司教でした。アンティオキアは現在のトルコ領内にあります。使徒言行録からわかるように、ここアンティオキアで活発なキリスト教共同体が生まれました。その最初の司教は、伝承が述べるところによれば使徒ペトロでした。そしてこのアンティオキアで、「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒言行録11・26)のです。4世紀の歴史家であるカイサレイアのエウセビオスはその『教会史』の1つの章全体を用いてイグナチオの生涯と著作について述べています(『教会史』3・36)。エウセビオスはこう述べます。「イグナチオはキリストをあかししたためにシリアからローマの都に送られ、獣の餌食になった。彼は監視人(イグナチオはそれを『イグナチオの手紙――ローマのキリスト者へ』5・1で「十頭の豹(ひょう)」と呼んでいます)付きのもっとも厳重な警戒の下にアジア経由で送られたが、途中の都市の教会管区をみことばの説教と勧めによって励ました。彼は特に、当時初めて頭をもたげ始めた異端の派を警戒するようにと警告し、使徒たちの伝承にどこまでも忠実であるように、と彼らに勧めた」(『教会史1』秦剛平訳、山本書店、1986年、190頁。一部表現を改めた)。イグナチオが殉教に向かう旅で最初に滞在したのはスミルナの町でした。スミルナの司教は、聖ヨハネの弟子であるポリュカルポスでした。このスミルナでイグナチオはエフェソ、マグネシア、トラレス、ローマに宛てた4通の手紙を書きました。エウセビオスは続けてこう述べます。「彼はスミルナを通過すると、トロアスから書簡」を送りました。2通はフィラデルフィアとスミルナの教会へ、1通は司教ポリュカルポスに宛てたものでした。こうしてエウセビオスは手紙のリストを完結します。これらの手紙は1世紀の教会から貴重な宝としてわたしたちに伝えられました。これらの文書を読むと、まだ使徒たちを知っていた世代の生き生きとした信仰を感じることができます。わたしたちはまたこれらの手紙の中に、一人の聖人の熱い愛を感じます。最後に殉教者イグナチオはトロアスからローマに至り、このローマのアンフィテアトルム・フラウィウム(コロッセオ)で、凶暴な獣の餌食となりました。
 イグナチオは教父の誰よりも強く、キリストと一致し、キリストに結ばれて生きる望みを表しました。だからわたしたちは、ぶどうの木についての福音書の箇所を朗読したのです。ヨハネによる福音書によれば、ぶどうの木とはイエスのことです。実際、イグナチオにおいては二つの霊的な「思想」が合流しています。すなわち、キリストとの「一致」に向けたパウロの思想と、キリストに結ばれて「生きる」ことに中心を置くヨハネの思想です。イグナチオの場合、この二つの思想はキリストに「倣う」こととしてまとめられました。イグナチオは何度もキリストを「わたしの神」また「わたしたちの神」と呼んでいます。そこでイグナチオはローマのキリスト者に、自分の殉教を妨げないよう願います。なぜなら、彼は「イエス・キリストに結ばれる」ことを待ちこがれているからです。イグナチオはこう説明します。「わたしには地の涯(はて)まで支配するより、イエス・キリストへと(エイス)死ぬ方がよいのです。わたしが求めるのは彼、わたしたちのために死んだ方なのです。わたしが欲するのは彼、わたしたちのためによみがえった方なのです。・・・・わたしの神の受難をまねるのを許してください」(『イグナティオスの手紙――ローマのキリスト者へ』5-6〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、128頁〕)。わたしたちはこの燃えるような愛の表現の中に、アンティオキア教会特有の「現実的な」キリスト論を見いだすことができます。アンティオキア教会のキリスト論は、神の子の受肉と神の子の真に具体的な人性に何よりも目を向けたからです。イグナチオはスミルナのキリスト者にこう書き送ります。イエス・キリストは「まことにダビデの裔(すえ)」、「まことに処女より生まれ」、「まことに十字架につけられた」〔『イグナティオスの手紙――スミルナのキリスト者へ』1・1〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、135頁。一部表現を改めた〕)。
 イグナチオのキリストとの一致へのやむにやまれない傾きが、この真に固有な意味での「一致の神秘家」の基盤です。イグナチオは自分を「一致のために立てられた人間」(『イグナティオスの手紙――フィラデルフィアのキリスト者へ』8・1〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、132頁〕)だといいます。イグナチオにとって、一致は何よりもまず神のあり方です。神は三つの位格として存在しながら、完全な一致の内に一なる方だからです。イグナチオはしばしば繰り返していいます。神は一致である。そして、神の内にのみこの一致は純粋で本来のしかたで見いだされると。キリスト者がこの世で実現できる一致は、可能な限り神の原型に従って造り変えられるという、一致の模倣にすぎません。このようなしかたでイグナチオは教会の姿を描きます。この教会の姿は、ローマのクレメンスの『コリントのキリスト者への手紙』のある表現をよく思い起こさせます。たとえばエフェソのキリスト者への手紙の中で、イグナチオはこう述べます。「それゆえあなたがたは監督(司教)の意向に一致してゆくのがよろしいのです――あなたがたは実際そうしておいでですが。というのはあなたがたの、その名にふさわしい長老(司祭)団は、神にもふさわしいのですが、弦が竪琴に対するように、監督に調和しているからです。こうしてあなたがたは心をひとつにして、愛のシンフォニーをもって、イエス・キリストを歌っているのです。そしてあなたがたは皆、各人がコーラスに加わりなさい。それは心をひとつにして声をあわせ、一致して神の調べをかなで、イエス・キリストによりひとつ声で父を歌うためです」(『イグナティオスの手紙――エペソのキリスト者へ』4・1-2〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、108-109頁〕)。また、スミルナのキリスト者に「誰でも教会に関することを監督(司教)ぬきで行ってはならない」(『イグナティオスの手紙――スミルナのキリスト者へ』8・1〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、137頁〕)と勧めた後、イグナチオはポリュカルポスにこう述べます。「わたしは、監督、長老団、執事(助祭)に従う者に身をささげた者です。わたしはその人たちとともに神にあずかりたいと思っています。互いに苦労し合いなさい。一緒に闘い、一緒に走り、一緒に苦しみ、一緒に眠り(死)、一緒に眼覚め(復活)なさい――神(の家)の管理人、(その食卓の)同席者またしもべとして。あなたがたを兵役に服させている方のお気に召すようにしなさい。あなたがたは神から報酬を受けるのです。あなたがたの誰も逃亡兵と認められないようになさい。いつもあなたがたの洗礼を武器、信仰を冑(かぶと)、愛を槍、忍耐を鎧(よろい)たらしめなさい」(『イグナティオスの手紙――ポリュカルポスへ』6・1-2〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、142頁〕)。
 総じて、わたしたちはイグナチオの手紙の中に、キリスト教的生活の特徴をなす二つの側面の、いわば絶えることのない実り豊かな弁証法を見いだすことができます。二つの側面とは、教会共同体の位階的構造と、すべてのキリスト信者をキリストに結びつける基本的な一致のことです。したがって、この二つの役割が対立することはけっしてありえません。反対に、信者は互いに交わり合い、また牧者と交わらなければならないということが、弦、竪琴、調和、合唱、シンフォニーという雄弁なイメージとたとえによって絶えず述べられます。共同体を築く上で、司教、司祭、助祭が特別な責任を負うことは明らかです。何よりもこれらの人びとに、愛と一致への招きが当てはまります。イグナチオはマグネシアのキリスト者に、最後の晩餐におけるイエスの祈りを自分のものとするようにいいます。「ひとところに集まってひとつの祈り、ひとつの願い、ひとつの心、ひとつの希望(となること)・・・・神のひとつの宮、ひとつの祭壇に向かって。(すなわち)ひとりのイエス・キリストに向かって。この方はひとりの父から出、ひとりの方のもとに在(いま)し、またそこへと帰りたもうたのです」(『イグナティオスの手紙――マグネシアのキリスト者へ』7・1-2〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、117頁〕)。イグナチオはキリスト教文献の中で初めて教会に「カトリック的」(すなわち「普遍的」)という形容詞を用いました。イグナチオはいいます。「イエス・キリストが在(いま)したもうところ、そこに公同(カトリック)教会がある」(『イグナティオスの手紙――スミルナのキリスト者へ』8・2〔前掲邦訳、137頁〕)。まさにこのカトリック教会の一致に奉仕するために、ローマのキリスト教共同体はいわば愛の首位権を行使します。「ローマ人の国の地において指導的であり、神にふさわしく、名誉にふさわしく、祝福にふさわしく・・・・愛にすぐれ、キリストの法を守り、父に従って名づけられたもの」(『イグナティオスの手紙――ローマのキリスト者へ』あいさつ〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、125頁〕)。
 ご覧の通り、イグナチオはまことに「一致の博士」といえます。この一致は、神の一致、キリストの一致であり(さまざまな異端が広がり、キリストにおける神性と人性を分離し始めていたにもかかわらず)、教会の一致、信者の一致です。それは「信仰と愛における一致です。これより優れたものはありません」(『イグナティオスの手紙――スミルナのキリスト者へ』6・1)。要するに、イグナチオの「現実主義」は、過去と現在の信者、すなわちわたしたち皆を招きます。キリストに従って「造り変えられる」こと(キリストとの一致、キリストに結ばれて生きること)と、キリストの教会に「自分をささげる」こと(司教との一致、共同体と世界への寛大な奉仕)とをますます一つにまとめるようにと。つまりわたしたちは、教会内の「交わり」と、人びとに福音を宣べ伝える「宣教」の総合を実現しなければなりません。それは、一方の側面を通じてもう一方の側面が語られ、信者が「ゆるがぬ霊つまりイエス・キリストを受ける」(『イグナティオスの手紙――マグネシアのキリスト者へ』15〔前掲邦訳、119頁〕)ことができるようになるためです。この「一致の恵み」を主に願いながら、また愛において全教会を指導する者であることを確信しながら(『イグナティオスの手紙――ローマのキリスト者へ』あいさつ参照)、わたしは、イグナチオがトラレスのキリスト者への手紙の結びに述べたのと同じあいさつを皆さんに送ります。「各人が分裂のない心をもって愛し合いなさい。わたしの霊はただに今のみならず、わたしが神に到着するときにも、あなたがたにささげられたものであります。・・・・キリストにあって、あなたがたが疵(きず)なきものと認められますように」(『イグナティオスの手紙――トラレスのキリスト者へ』13〔八木誠一訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、124頁〕)。そして祈りたいと思います。どうか主の助けによって、わたしたちがこの一致を実現し、最後に疵なきものと認められることができますように。愛は魂を浄めるからです。

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