教皇ベネディクト十六世の88回目の一般謁見演説 哲学者にして殉教者聖ユスチノ

2007年3月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の88回目の一般謁見が行われました。 この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会 […]

2007年3月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の88回目の一般謁見が行われました。
この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の35回目として、「哲学者にして殉教者聖ユスチノ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、知恵の書9章1-4節が朗読されました。謁見には約25,000人の信者が参加しました。
演説の後、最後にイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、3月24日に国連世界保健機関(WHO)主催による「世界結核デー」が行われるにあたり、次の呼びかけを行いました。
「今週の3月24日に世界結核デーが行われます。この毎年恒例の行事によって、結核の治療と、結核を患う人に対するいっそうの連帯が推進されますように。わたしは結核を患う人とそのご家族の上に主の慰めが与えられることを祈り求めます。そして、教会がこの分野でさまざまな援助計画を推進することを奨励します」。
3月に発表された WHO の報告によれば、世界の人口の3分の1にあたる約20億人が結核菌に感染しており、その10分の1の人が発症する可能性があります。
謁見の終わりに教皇は、バチカンを訪れたチュービンゲン大学神学部教授団を迎えました。教皇は1966年から1969年までチュービンゲン大学で神学を教えました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 この連続講話の中でわたしたちは初代教会の偉大な人びとについて考察しています。今日は哲学者にして殉教者聖ユスチノについてお話しします。聖ユスチノは2世紀の護教教父の中でもっとも重要な人物です。「護教家」ということばは、異教徒とユダヤ人の激しい非難からキリスト教という新しい宗教を擁護し、当時の文化に合った用語でキリスト教の教えを広めることに努めた、古代キリスト教著作家を意味します。したがって護教家たちには二つの目的がありました。一つは本来の護教的な目的で、初期キリスト教の擁護です(ギリシア語の「アポロギア」は「擁護」を意味します)。もう一つは、積極的、「宣教的」な目的で、同時代の人にわかることばと概念・思想によって信仰の内容を説明することでした。
 ユスチノは100年頃、聖地のサマリアの古くからある町シケムで生まれました。彼は長い間真理を探求して、伝統的なギリシア哲学の諸学派を遍歴しました。著書『ユダヤ人トリュフォンとの対話』の最初の数章で彼自身が述べているように、ついに彼は海辺で謎めいた老人と出会います。この老人は初めユスチノを動揺させます。老人は、人間が自分の力だけで神へのあこがれを満たすことができないことを示したからです。それから老人は、神への道と「真の哲学」を見いだすために向かうべき人びととして、昔の預言者を示します。老人は立ち去る前に、光の門が開かれることを祈るようユスチノに勧めました。この話は、ユスチノの生涯における決定的な出来事を暗示しています。すなわち、真理探求のための長い哲学的遍歴の末に、ユスチノはキリスト教信仰に到達したのでした。ユスチノはローマに学校を開設し、そこで学生を無償で新しい宗教へと導きました。彼はこの新しい宗教が真の哲学だと考えたからです。実際ユスチノは、この新しい宗教の内に、真理と正しく生きるための道を見いだしました。このことを理由に、ユスチノは、マルクス・アウレリウス治下の165年頃告発され、斬首されました。ユスチノはこの哲学者皇帝であるマルクス・アウレリウスに『弁明』を献呈しました。
 現存するユスチノの著作は、二つの『弁明』と『ユダヤ人トリュフォンとの対話』のみです。これらの著作の中でユスチノは何よりも、創造とイエス・キリストによってもたらされた救いにおける神の計画を明らかにしようとします。イエス・キリストは「ロゴス」すなわち、永遠のみことば、永遠の理性、創造主である理性です。すべての人は、理性的な被造物である限り、この「ロゴス」にあずかります。こうしてすべての人は自らの内に「種子」をもち、真理のかすかな光をとらえることができます。ロゴスは旧約の中でユダヤ人たちに預言者の姿で示されました。そしてこのロゴスはギリシア哲学の中でも「真理の種子」として部分的に現されます。そこでユスチノは結論づけます。キリスト教は完全な「ロゴス」が歴史において人を通して現されたものです。ですから「あらゆる人びとの間で語られてきた正しいことばは、どれもわたしどもキリスト教徒に属しているのです」(『第二弁明』13・4〔柴田有訳、『キリスト教教父著作集1 ユスティノス』教文館、1992年、156頁〕)。このようにしてユスチノは、ギリシア哲学の矛盾を批判しながらも、あらゆる哲学的真理をはっきりと「ロゴス」へと方向づけます。そのために彼は、合理的な観点に基づいて、真理とキリスト教の普遍性に関する独自の「要求」を根拠づけるのです。像が、像の示す現実に方向づけられるように、旧約はキリストを目指しています。そうであれば、部分が全体との一致を目指すように、ギリシア哲学もキリストと福音に方向づけられています。そしてユスチノはいいます。この旧約とギリシア哲学の二つは、「ロゴス」であるキリストへと導く二つの道です。だからギリシア哲学を福音の真理と対立させてはなりません。またキリスト教徒は、自分の持ち物であるかのように、自信をもってギリシア哲学を用いることができます。そのためわたしの敬愛すべき前任者である教皇ヨハネ・パウロ二世はユスチノを「慎重な分別をもって、哲学的学説との積極的関係を進めた開拓者」と述べたのです。なぜなら「彼はギリシア哲学に対して最高の評価を下しながらも、自分はキリスト教の中に『唯一の確実で有益な哲学』(『ユダヤ人トリュフォンとの対話』8・1)を発見したと力強くまた明白に断言しています」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』38)。
 要するに、ユスチノの生涯と著作は、古代教会が、異教宗教ではなく、哲学すなわち理性をはっきりと選んだことを示します。実際、初期キリスト教徒は、異教宗教とのいかなる妥協も粘り強く拒みました。彼らは「不敬虔」で「無心論者」と非難されることを覚悟の上で、異教宗教を偶像礼拝と考えました。中でもユスチノは特に『第一弁明』で異教宗教とその神話を厳しく批判しました。ユスチノはそれを真理への道からそらす悪魔の姿とみなしたからです。これに対して、哲学は、まさに異教宗教とその誤った神話を批判する点で、異教とユダヤ教とキリスト教が出会うための特別な場となります。そこでユスチノの同時代のもう一人の護教家サルデイスの司教メリトンは、新しい宗教であるキリスト教をはっきりと「わたしたちの哲学」ということができたのです(カイサレイアのエウセビオス『教会史』4・26・7)。
 実際、異教宗教は「ロゴス」の道を歩まず、ギリシア哲学が神話を真理と合致しないと認めたにもかかわらず、神話の道に固執しました。ですから異教宗教の没落は不可避だったのです。それは宗教(すなわち、人間の手で儀礼と慣習としきたりにおとしめられた宗教)を存在の真理から切り離したことから来る当然の帰結でした。ユスチノや他の護教家たちは、異教宗教の偽りの神々ではなく、哲学者の神を認める、キリスト教信仰としてのはっきりとした立場をとりました。彼らは「慣習」に基づく神話ではなく、存在の「真理」を選んだのです。ユスチノから数十年後、テルトゥリアヌスはキリスト教徒のこの同じ選択を簡潔で永遠に有効な次のことばで述べました。「わたしたちの主キリストはご自分を慣習ではなく真理と呼ばれた(Dominus noster Christus veritatem se, non consuetudinem, cognominavit)」(『処女のヴェールについて』:De virginibus velandis 1, 1)。ここでテルトゥリアヌスが異教宗教を指すために用いた「慣習(consuetudo)」ということばは、近代語で「文化的流行」、「時代の流行」といった言い方で訳せるものであることにご注意ください。
 価値観や宗教をめぐる議論における(諸宗教対話にもそれがいえますが)相対主義を特徴とする現代において、これは忘れてならない教訓です。そのため――そして、これがわたしの結論ですが――わたしは海辺で哲学者ユスチノが出会った謎めいた老人の最後のことばを繰り返したいと思います。「しかしあなたは何よりも光の門があなたに開かれるように祈りなさい。なぜならこれらのことは、神と神のキリストが理解を贈られたもの以外には、だれにも洞察し理解することはできないからである」(『ユダヤ人トリュフォンとの対話』7・3〔三小田敏雄訳、『キリスト教教父著作集1 ユスティノス』教文館、1992年、213頁〕)。

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