教皇ベネディクト十六世の90回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味について

4月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の90回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「聖なる過越の三日間の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書26章20-25節が朗読されました。謁見には20,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 灰の水曜日から始まった四旬節の歩みを終えるにあたり、今日の受難の水曜日の典礼はすでにわたしたちを明日からの感動的な雰囲気へと導きます。わたしたちは明日からキリストの受難と死を記念します。実際、今日の典礼の中で、福音書記者マタイはわたしたちの黙想のために、二階の広間でイエスとユダの間で行われた短い対話を示します。神である師はあらかじめこういわれました。「はっきりいっておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。すると、裏切る者は神である師に問いかけます。「先生、まさかわたしのことでは」。主は簡潔にこうこたえます。「それはあなたのいったことだ」(マタイ26・14-25参照)。聖ヨハネは、ユダの裏切りが予告される話を、短く意味深いことばでしめくくります。「夜であった」(ヨハネ13・30)。裏切る者が二階の広間を出ると、暗闇が彼の心をとらえます。暗闇とは内面の夜でもあります。他の弟子の心の中にも失望が強まります。彼らもまた夜に向かいます。こうして人の子のまわりには離反と憎しみの闇が深まります。人の子は十字架上の犠牲を成し遂げ始めたからです。明日からわたしたちは、光と闇、いのちと死との最後の戦いを記念します。わたしたちもこの状況に自分の身を置かなければなりません。わたしたちの「夜」を、わたしたちの罪と負い目を自覚しながら。それは、わたしたちが過越の神秘から霊的な益を得ようと望むからです。この神秘によって心に光をもたらそうと望むからです。過越の神秘はわたしたちの信仰の中心的な基盤をなすものだからです。
 過越の三日間は、明日の「聖木曜日」から始まります。聖香油のミサは聖なる過越の三日間の前奏曲と考えることができます。このミサの中で、教区の司牧者、この司牧者のそばで働く協力者、司祭は、神の民に囲まれながら、司祭叙階の日に行った約束を更新します。これは毎年、教会の交わりを強める時です。そこでは、キリストが、十字架上で死ぬ前夜、役務としての司祭職のたまものを教会に残したことが強調されるからです。すべての司祭にとって、それは受難の前夜の感動的な時です。そのとき、主はわたしたちにご自身を与えてくださったからです。すなわち、わたしたちに聖体の秘跡と、司祭職を与えてくださったからです。聖木曜日はわたしたち皆の心を動かす日です。この後、秘跡の執行のために用いられる聖香油が祝福されます。すなわち、洗礼志願者のための油、病者の油、そして聖香油です。午後、聖なる過越の三日間に入り、キリスト教共同体は「主の晩さんのミサ」の中で、二階の広間で行われたすべてのことを再体験します。あがない主は二階の広間で、自らのからだと血となったパンとぶどう酒の秘跡によって、ご自分のいのちのいけにえを先取ろうと望みました。あがない主はご自分の死を先取りました。この死は、ご自分のいのちの無償のたまものであり、人類のために決定的なしかたでご自分をささげることでした。洗足式によって、あがない主がしたことが繰り返されます。あがない主はこの洗足によって、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました(ヨハネ13・1参照)。そして弟子たちに、このへりくだりと死に至るまでの愛の行いを、彼らの特徴として残しました。「主の晩さんのミサ」の後、典礼は信者が聖体の秘跡を礼拝するためにとどまるよう招きます。それはゲツセマネでのイエスの苦しみを再体験するためです。わたしたちは、弟子たちが眠り、主をひとりきりにしたことを知っています。今日も、イエスの弟子であるわたしたちは、しばしば眠っています。この聖なるゲツセマネの夜に、わたしたちは目を覚ましていたいと望みます。このときにあたって主をひとりきりにしないようにしたいと望みます。こうしてわたしたちは聖木曜日の神秘をもっとよく理解できるようになります。聖木曜日は、役務としての司祭職、聖体、そして新しい愛(アガペー)のおきてという三つの最高のたまものを含んでいるからです。
 聖金曜日は、キリストの死刑判決から十字架までの出来事を記念します。この日は、悔い改め、断食し、祈り、主の受難にあずかるための日です。定められた時に、キリスト信者の会衆は、神のことばと典礼によって、神の計画に背いた人類の歴史を振り返ります。しかし、神の約束はまさにこのようにして実現されました。わたしたちはまた、痛ましい主の受難の感動的な物語に耳を傾けます。その後、天の父に長い「信者の祈り」がささげられます。この祈りは、教会と世界が必要とするすべてのことを願います。それから共同体は十字架を礼拝し、聖体に近づき、前日の「主の晩さんのミサ」で保存しておいた聖体を拝領します。聖ヨハネ・クリゾストモは聖金曜日について解説して次のように述べます。「かつて十字架は侮辱を意味しました。今日、十字架はあがめられます。かつて十字架は罪のしるしでした。今日、十字架は救いの希望です。まことに十字架は限りないいつくしみの源となりました。十字架はわたしたちを過ちから解放し、わたしたちの闇を打ち払い、わたしたちを神と和解させてくださいました。十字架は、神に敵対していたわたしたちを神の家族とし、異邦人だったわたしたちを神の隣人としてくださいました。今や十字架は敵意を滅ぼすもの、平和の泉、わたしたちの宝を納める器です」(『十字架と盗賊について』:De cruce et latrone I, 1, 4)。あがない主の受難をもっと深く再体験するために、キリスト教の伝統は多くの民間信心の形を生み出してきました。その中には、有名な聖金曜日の行列や、長年繰り返されてきたさまざまな意味深い典礼があります。しかし、ここに「十字架の道行」という信心業があります。これは、1年全体を通じてわたしたちに、十字架の神秘をわたしたちの心に深く刻み、キリストとともに十字架の道を歩み、こうしてわたしたちを内的な意味でキリストに向けて造り変える機会を与えてくれます。大聖レオのことばを使えば、こういうことができます。「十字架の道行」は「十字架につけられたイエスに心の目を注ぎ、イエスの肉体の内にわたしたちの肉体を見いだす」(『説教15――主の受難について』)ことをわたしたちに教えます。十字架にこそ、キリスト信者のまことの知恵があります。わたしたちはこの知恵を、聖金曜日にコロッセオで行われる「十字架の道行」で学びたいと思います。
 聖土曜日は、典礼が行われない日、大いなる沈黙の日です。この日、キリスト信者は、現代ではしばしば行うことが難しい、内的な精神の集中を守ることが求められます。それは、「復活徹夜祭」をふさわしく準備するためです。多くの共同体では、この日、黙想会やマリアへの祈りの集いが行われます。それはいわば、十字架につけられた御子の復活を不安と信頼のうちに待ち望んだ、あがない主の母と一つに結ばれるためです。最後に、復活徹夜祭で、主の死と葬りの間、教会を覆っていた悲しみの覆いが、勝利の叫び声によって取り払われます。「キリストは復活し、永遠に死に打ち勝ちました」。そのときわたしたちは、十字架の神秘を真の意味で理解することができます。かつてある著作家が述べたように、「わたしたちは、神が不可能なものから偉大なわざを造り出されるように、ただ望みのままに行うことができることを知ります。彼の死によってわたしたちは生き、彼の傷によってわたしたちはいやされ、彼が倒れたことによってわたしたちはよみがえり、彼が降ったことによりわたしたちは再び立ち上りました」(14世紀の無名の著作家)。復活徹夜祭の中で、堅固な信仰に力づけられながら、わたしたちは新受洗者を迎え入れ、自分たちの洗礼の約束を更新します。こうしてわたしたちは体験します。教会が常に生きていることを。教会が常に若返っていることを。教会が常に美しく、聖なるものであることを。なぜなら、教会の基盤はキリストだからです。キリストは復活し、もはやけっして死ぬことがないからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖なる過越の三日間がわたしたちに体験させてくれる過越の神秘は、たんに過去の出来事の追憶ではありません。それは今も変わることのない現実です。今日もキリストは、その愛によって、罪と死に打ち勝っておられます。あらゆる形態の悪が、最後に勝利を収めることはありません。最後の勝利を手にするのは、キリストであり、真理であり、愛なのです。復活徹夜祭に聖パウロがわたしたちに思い起こさせてくれるように、もしわたしたちが進んでキリストとともに苦しみ、キリストとともに死ぬならば、キリストのいのちがわたしたちのいのちとなります(ローマ6・9参照)。わたしたちのキリスト信者としての生活は、この確信を基盤とし、この確信の上に築かれます。至聖なるマリアの執り成しを祈り求めましょう。マリアはイエスに従って受難と十字架の道を歩み、十字架から降ろされたイエスを抱きとめました。わたしは皆様に願います。どうか過越の三日間に熱心にあずかってください。それは、皆様が、愛するすべての人びととともに復活祭の喜びを味わうことができるようになるためです。

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