教皇ベネディクト十六世、復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2007.4.8)

4月8日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されています […]

4月8日(日)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、復活祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されています。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
メッセージの発表の後、62か国語による祝福が述べられました。教皇は51番目に日本語で次のように述べました。「ご復活祭おめでとうございます」。最後の祝福は、ラテン語で行われました。「わたしの主、わたしの神よ」(Dominus meus et Deus meus)。このヨハネによる福音書20章28節からとられたトマスのことばは、復活祭メッセージ本文にも引用されています。最後に全世界の人びとへの祝福が行われました。
この日、教皇は、午前10時30分からサンピエトロ広場で復活の主日の日中のミサをささげました。ミサと祝福の模様は67か国にテレビ・ラジオによって中継されました。


 

世界中の親愛なる兄弟姉妹の皆様、
すべての善意の人びとへ。
 キリストは復活しました。皆様に平和がありますように。今日わたしたちは偉大な神秘を祝っています。この神秘はキリスト教の信仰と希望の土台です。すなわち、十字架につけられたナザレのイエスが、聖書に書いてある通り、三日目に死者の中から復活したことです。天使が安息日の後の最初の日の明け方早く、墓のそばにいたマグダラのマリアと婦人たちに告げた知らせを、わたしたちは今日、新たな感動をもって耳にします。「なぜ、生きておられるかたを死者の中に捜すのか。あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24・5-6)。
 この婦人たちがそのとき感じていた気持ちを想像するのは難しいことではありません。それは、彼女たちの主が死んだことに対する悲しみと落胆、とてもほんとうとは思えないような驚くべき出来事への不信と驚愕です。けれども墓は開いており、空でした。主のからだはもはやそこにありませんでした。婦人たちからこのことを聞いたペトロとヨハネは、墓に走って行き、婦人たちのいうことが正しいことを確かめました。使徒たちのイエスへの信仰、すなわち待望していたメシアへの信仰は、十字架のつまずきによって厳しい試練にさらされました。イエスが逮捕され、罪に定められ、死ぬと、使徒たちは散り散りになりました。今、彼らはとまどい、狼狽しながら、再び集まります。しかし復活した主ご自身が来て、確実な証拠を求める彼らの不信仰にこたえます。この出会いは、夢でも、幻でも、主観的な想像でもありませんでした。それは現実の体験でした。むろんそれは予期していなかったがゆえに、感動的な体験でした。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』といわれた」(ヨハネ20・19)。
 このことばを聞いて、使徒たちの心の中でほとんど消えかけていた信仰に再び火がともりました。使徒たちはトマスにいいました。トマスはこの最初の特別な出会いの場に居合わせなかったからです。「まことに主はあらかじめ告げられたことをすべて実現されました。主はほんとうに復活し、わたしたちは主を見、主に触れました」。しかしトマスは疑い、とまどい続けました。イエスが二回目に、八日の後、二階の広間で現れたとき、イエスはトマスにいいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。使徒トマスはこたえて、感動的な信仰告白を行いました。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・27-28)。
 「わたしの主、わたしの神よ」。わたしたちもまた、トマスの信仰告白をあらためて唱えたいと思います。わたしはこのことばを今年の復活祭のあいさつとして選びました。それは、現代の人類が、キリスト信者に、キリストの復活をあらためてあかしすることを期待しているからです。現代の人類は、キリストと出会い、キリストがまことの神にしてまことの人であることを知ることを必要としています。わたしたちは使徒トマスの内に、現代の多くのキリスト信者が抱いている疑いと不安を、また、わたしたちの同時代の多くの人びとの恐れと失望を見いだすことができます。そうであれば、わたしたちはまたトマスの内に、わたしたちのために死んで復活したキリストへの信仰を、新たな確信をもってもう一度見いだすこともできるのです。使徒の後継者によって幾世紀にわたって伝えられてきたこの信仰は、いつまでも続きます。なぜなら、復活した主はもはやけっして死ぬことがないからです。主は教会の中で生きておられます。そして、ご自身の永遠の救いの計画の完成に向けて、教会をしっかりと導いてくださいます。
 わたしたちは皆、トマスのような不信仰の誘惑を受ける可能性があります。特に、戦争やテロや病気や飢餓の犠牲者となった子どもたちのような、罪のない人びとを死が襲うとき、苦しみ、悪、不正、そして死は、わたしたちの信仰を試さずにいられるでしょうか。逆説的にも、トマスの不信仰はこのような場合に、わたしたちにとって有益かつ貴重です。なぜなら、トマスの不信仰は、神についてのあらゆる誤った考えを浄め、わたしたちが神の真のみ顔を見いだすように導かれるために役立つからです。すなわち、キリストの内に傷ついた人類の傷を身に負われた、神のみ顔です。トマスが主から与えられ、教会に伝えたもの――それは、イエスの受難と死によって試され、復活した主との出会いによって強められた信仰のたまものです。トマスの信仰はほとんど死にかけていました。しかし、この信仰はキリストの傷に触れることによって生き返りました。復活した主は、この傷を隠さずに示しました。そして主は、全人類の試練と苦しみの中でそれをわたしたちに示し続けます。
 「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(一ペトロ2・24)。最初にキリストを信じるようになった人びとに対して、ペトロはこの知らせを告げました。この傷は、初めトマスの信仰の妨げとなりました。それはイエスが失敗したことをはっきりと示すしるしだったからです。この同じ傷が、復活した主との出会いの中で、愛の勝利のしるしとなりました。キリストがわたしたちへの愛のために受けた傷の助けによって、わたしたちは神がどのようなかたであるかを悟ることができます。そして、わたしたちもまたこういうことができるのです。「わたしの主、わたしの神よ」。わたしたちの傷と苦しみを身に負われた神、特に、罪のない人の苦しみを負われた神――信じるに値するのは、このかただけです。
 世界にはどれほど多くの傷が、どれほど多くの苦しみがあることでしょうか。自然災害と人間による悲惨な出来事はなくなることがありません。それらは数えきれない犠牲者と膨大な物的被害を生じています。わたしの思いはマダガスカル、ソロモン諸島、ラテンアメリカや、世界のさまざまな地域で最近起こった出来事に向かいます。わたしは飢餓の災い、不治の病、テロと人びとの拉致、さまざまな形の暴力――時として人びとはそれを宗教の名のもとに正当化します――、人命の軽視、人権の侵害、そして人間の搾取のことを思います。わたしはアフリカの少なからぬ地域に見られる状況を懸念をもって注視します。ダルフールとそれに隣接する諸国では、破局的な人道的状況があるにもかかわらず、残念ながら人びとはこれを見過ごしています。コンゴ民主共和国のキンシャサでは、この数週間の衝突と略奪がコンゴの民主化の進行の行方と国家の再建に不安を与えています。ソマリアでは、戦闘の再開が平和への望みを遠退かせ、特に人びとの移動と武器貿易に関して、地域の危機を悪化させています。ジンバブエは深刻な危機に苦しんでいます。そのためジンバブエの司教団は最近の文書で、事態を乗り越えるための唯一の道は、祈りと共通善のための共通の取り組みであると述べています。
 同様に、重要な選挙の時期に備える東ティモールの人びとも、和解と平和を必要としています。平和はほかの国でも必要とされます。スリランカで、流血をもたらす紛争の悲劇を終わらせるのは、交渉による解決だけです。アフガニスタンを特徴づけているのは、政情不安と不安定の増大です。中東では、イスラエルとパレスチナ当局の対話に希望のきざしがあるほかは、残念ながらイラクからは何の積極的な要素も生じていません。殺戮による流血は続き、一般市民は避難を強いられています。レバノンでは、国の政治機構の停滞が、同国が中東地域で果たすよう求められる役割を脅かし、国家の将来を深刻なしかたで危うくしています。最後に、キリスト信者が日々困難に直面していること、また、キリスト信者が聖地から退避していることを忘れることはできません。聖地はわたしたちの信仰の揺りかごだからです。これらの人びとに対して、わたしは、わたしがいつも霊的なしかたで彼らとともにいることを、心からあらためて表明します。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは、復活したキリストの傷を通して、これらの人類を苦しめるさまざまな悪を、希望のまなざしをもって見ることができます。実際、主は復活によって、世から苦しみと悪を取り去ったのではありません。むしろ主は、満ちあふれる恵みによって、苦しみと悪にその根本から打ち勝ったのです。主は、おごり高ぶる悪そのものに、全能の愛によって立ち向かったのです。主はわたしたちに、平和と喜びに至る道として、死をも恐れない愛を残してくださいました。主は亡くなる前に弟子たちにいわれました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。
 世界のあらゆるところからわたしに耳を傾けてくださっている、信仰における兄弟姉妹の皆様。キリストは復活しました。そしてキリストはわたしたちの中で生きておられます。キリストこそが、よりよい未来の希望です。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスとともにこういいながら、心の中で主が命じる甘美なことばをあらためて聞くことができますように。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(ヨハネ12・26)。主に結ばれて、わたしたちの兄弟のためにいのちを捨てる準備をしながら(一ヨハネ3・16参照)、わたしたちも平和の使徒となろうではありませんか。苦しみを恐れることのない喜びの、復活した主の喜びの使者となろうではありませんか。復活したキリストの母であるマリアの助けによって、わたしたちがこの復活のたまものを得ることができますように。ご復活祭おめでとうございます。

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