教皇ベネディクト十六世の91回目の一般謁見演説 復活祭の意味について

4月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の91回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「復活祭の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書20章14-20節が朗読されました。謁見には50,000人以上の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちは、荘厳な復活祭の後、恒例の水曜の謁見のために集まりました。わたしは何よりも、皆様一人ひとりにあらためて心からお祝いを申し上げたいと思います。皆様がこんなにもたくさん集まってくださったことに感謝します。また、主が今日わたしたちにすばらしい天気を与えてくださったことにも感謝します。「主はまことに復活された。アレルヤ」。復活徹夜祭でこの知らせが告げられました。今や主ご自身がわたしたちにこういわれます。「わたしはけっして死ぬことなく、永遠に生きる」。主は罪人にこういわれます。「罪のゆるしを受けなさい。まことにわたしはあなたがたの罪のゆるしである」。最後に主はすべての人に繰り返してこういわれます。「わたしは救いの過越、わたしはあなたがたのためにほふられた小羊、わたしはあなたがたのあがない、わたしはあなたがたのいのち、わたしはあなたがたのよみがえり、わたしはあなたがたの光、わたしはあなたがたの救い、わたしはあなたがたの王。わたしはあなたがたに父を示そう」。これは、2世紀の著作家のサルデイスのメリトンが、復活した主のことばの意味を具体的なしかたで解釈して述べたものです(サルデイスのメリトン『過越について』102-103参照)。
 この数日間、典礼は復活の後行われたイエスとのさまざまな出会いを思い起こします。安息日の翌朝早く、墓に行ったマグダラのマリアや他の婦人たちとの出会い。疑いながら、二階の広間に集まっていた使徒たちとの出会い。トマスや他の弟子たちとの出会い。こうしたさまざまな主の現れは、復活祭の根本的な意味を深く考えるようにわたしたちをも招きます。わたしたちは、復活祭の出来事の後の最初の数日間に、キリストと出会い、それがキリストだとわかった人びとの霊的な旅路をあらためてたどるよう促されるのです。
 福音書記者ヨハネは、ペトロとヨハネ自身が、マグダラのマリアの知らせを聞いて、ほとんど競争するように墓に向かって走ったと語ります(ヨハネ20・3以下参照)。教父たちは、この空の墓に急いで向かったことを、信じる者が行う唯一の正しい競争への勧めと考えます。すなわち、それはキリストを探求する競争です。ところで、マグダラのマリアについてわたしたちは何というべきでしょうか。マグダラのマリアは、泣きながら空の墓のそばにとどまっていました。彼女の望みはただ、彼女の師であるかたがどこに持っていかれたのかを知ることだけでした。彼女は師であるかたを見いだし、このかたが自分の名を呼んだときに、それがイエスであるとわかりました(ヨハネ20・11-18参照)。わたしたちもまた、単純で真実な心で主を求めれば、主と出会います。それどころか、主ご自身がわたしたちと出会うために来られます。主はわたしたちが主を認めることができるようにし、わたしたちの名を呼び、ご自身の愛との親しい交わりへと招き入れてくださいます。
 復活の八日間の水曜日の今日、典礼は、復活した主とのもう一つの独特な出会いをわたしたちに黙想させます。すなわち、エマオの二人の弟子と復活した主との出会いです(ルカ24・13-35参照)。自分たちの師であるかたの死に失望した二人は、家に戻るところでした。すると主が彼らと一緒に歩き始めます。しかし二人はそれが主だとわかりませんでした。ご自身について書かれた聖書のことばを説明する主のことばは、二人の弟子の心の火を燃え上がらせます。そこで二人は、目指す地に着くと、自分たちと一緒に泊まってくれるよう主に願います。ついに、主が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(ルカ24・30)とき、二人の目が開けました。けれどもその瞬間にイエスの姿は見えなくなりました。それゆえ二人は、イエスが姿を消したときに、イエスだとわかったのです。聖アウグスチヌスは、この福音書の話を解説して次のように述べます。「イエスがパンを裂き、彼らはそれがイエスだとわかりました。そこでわたしたちはもはや、キリストを知らないということはありません。もし信じるなら、わたしたちはキリストを知ります。まことに、もし信じるなら、わたしたちはキリストを持っています。かの弟子たちはキリストと食卓をともにしましたが、わたしたちは自分の心の中にキリストを持っています」。アウグスチヌスはこう結びます。「心にキリストを持つことは、家の中にキリストを持つ以上のことです。実際、わたしたちの心はわたしたちの家よりもわたしたちに近いからです」(『説教』:Sermones 232, VII, 7)。わたしたちもほんとうに心の中にイエスを担うよう努めようではありませんか。
 聖ルカは使徒言行録の序文でこう述べます。復活した主は「苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示した」(使徒言行録1・3)。わたしたちはこのことをよく理解しなければなりません。ルカ福音書記者は、「ご自分が生きていることを示した」と述べるとき、イエスがラザロのように元のいのちに生き返ったといいたいのではありません。聖ベルナルドはこう述べます。わたしたちが今祝っている「復活祭」の意味は、「過越」であって、「回帰」ではありません。なぜなら、イエスは元の状態に戻ったのではなく、「境界を超えて、より栄えある」、すなわち、新しく、決定的な「状態へと移られた」からです。だから、「今やキリストはまことに新しいいのちへと過ぎ越されたのです」(『復活祭についての説教』参照)。
 主はマグダラのマリアにこういわれました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハネ20・17)。特に、疑い深いトマスに起こったことと比べるとき、このことばはわたしたちを驚かせます。そのとき、二階の広間では、復活した主ご自身が、手とわき腹とを使徒トマスにお見せになりました。それは、トマスがそれに触れて、主であることを確かめることができるようにするためでした(ヨハネ20・27参照)。実際には、二つの話は対立するものではありません。反対に、両者は互いに理解を助け合います。マグダラのマリアは、十字架を思い出したくない悲しい思い出と受け止めながら、以前と同じ師であるかたを取り戻そうと望みました。しかし、たんなる人間的な次元で、復活した主と関係をもつことはできません。復活した主と出会うには、後ろへ引き返すのではなく、新たなしかたで、復活した主との関係を結ばなければなりません。前へと進まなければならないのです。聖ベルナルドはこのことを強調していいます。イエスは「わたしたち皆をこの新しいいのちへと、すなわちこの過越へと招きます。・・・・わたしたちは、後ろを向いても、主を見ることはできません」(『復活祭についての説教』)。これがトマスに起きたことでした。イエスはトマスにご自分の傷を示しました。それは、十字架を忘れさせるためではなく、将来も十字架を忘れないようにするためでした。
 実際、わたしたちも未来に目を向けます。弟子の務めは、師であるかたの死と復活だけでなく、そのかたの新たないのちをあかしすることです。だからイエスは、疑い深い友が「ご自分に触れる」ように招いたのです。イエスは、ご自分の復活を直接あかしすることを望まれます。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちも、マグダラのマリアやトマスや他の使徒たちと同じように、キリストの死と復活をあかしするよう呼ばれています。わたしたちはこの大きな知らせを自分のためだけにとどめることはできません。わたしたちはそれを全世界に伝えなければなりません。「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20・25)。おとめマリアの助けによって、わたしたちが復活祭の喜びを完全に味わうことができますように。こうしてわたしたちが、聖霊の力に支えられながら、この喜びをわたしたちが生き、働く、あらゆるところに広めることができますように。あらためて皆様にご復活祭のお祝いを申し上げます。

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