教皇ベネディクト十六世の92回目の一般謁見演説 アレキサンドリアのクレメンス

4月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の92回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘 […]

4月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の92回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の37回目として、「アレキサンドリアのクレメンス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書1章1-5節が朗読されました。
同日、教皇庁教皇公邸管理部は、教皇ベネディクト十六世の2006年4月20日から2007年4月19日までの1年間の教皇謁見(一般謁見と個別謁見)、典礼、「お告げの祈り」の参加者数を発表しました。1年間の教皇行事への参加者数の合計は336万8,220人でした。一般謁見の参加者は102万600人、個別謁見の参加者は35万1,620人、典礼への参加者は53万6,000人、「お告げの祈り」の参加者は146万人でした。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  復活祭の期間の後、わたしたちは通常の教理講話に戻ります。とはいえ、サンピエトロ広場は今なお復活祭のために飾られています。今述べたように、わたしたちはこの教理講話で、すでに始めたテーマに戻ります。わたしはまず十二使徒についてお話しし、次に使徒の弟子たちについて話しました。今は初代教会、すなわち古代教会の偉大な人物についてお話ししています。前回、わたしはリヨンの聖イレネオについてお話ししました。今日わたしはアレキサンドリアのクレメンスについて話します。この偉大な神学者は、おそらくアテネで2世紀半ば頃生まれました。クレメンスはアテネから、アテネの特徴である哲学への関心を受け継ぎました。この関心が、クレメンスを、キリスト教の伝統における信仰と理性の対話の代表者の一人としました。まだ若いときに、クレメンスはアレキサンドリアに行きました。アレキサンドリアは、ヘレニズム時代の特徴である、諸文化の豊かな交流を象徴する町でした。クレメンスはパンタイノスの弟子となり、ついにはパンタイノスを継いで教理学校を主宰しました。多くの資料の証言によれば、クレメンスは司祭叙階を受けました。202-203年の迫害の間、クレメンスはアレキサンドリアからカッパドキアのカイサリアに逃れました。クレメンスは215年頃、このカイサリアで没します。
 現存するクレメンスのもっとも重要な著作は『ギリシア人への勧告』、『教育者』、そして『ストロマテイス』です。著者の元の意図ではなかったと思われますが、これらの3著作は真の意味で三部作をなしています。これらの著作は、キリスト信者の霊的成長を効果的なしかたで支えることをめざします。『ギリシア人への勧告』は、標題が示す通り、信仰の道を求める初心者への勧めです。さらに『ギリシア人への勧告(プロトレプティコス)』は一人の人間、すなわち神の子であるイエス・キリストとも一致します。イエス・キリストは真理であるかたへの道を歩み始める決意をした人への「勧告者」だからです。イエス・キリストご自身が、その後、『教育者(パイダゴーゴス)』、すなわち、洗礼によって神の子どもとなった人の「教育者」となります。最後に、この同じイエス・キリストは「教師(ディダスカロス)」でもあります。このかたはきわめて深い教えを示すからです。こうした深い教えは、クレメンスの第三の著作である『ストロマテイス』にまとめられます。「ストロマテイス」はギリシア語で「綾織物」を意味することばです。『ストロマテイス』は、さまざまな議論について体系的な形で述べたものではありませんが、クレメンスのふだんの教えから直接生まれたものです。
 全体として、クレメンスの教理講話は、洗礼志願者や受洗者とともに一歩ずつ歩みます。なぜなら、信仰と理性という二つの「翼」によって、彼らは真理そのものへの深い知識に達するからです。真理そのものとは、神のことばであるイエス・キリストです。この真理であるかたを知ることだけが、「真のグノーシス(覚知)」です。「グノーシス」とは、ギリシア語で「知識」ないし「知性」を表すことばです。「神のグノーシス(覚知)」は、超自然的な原理に促されながら、理性によって築かれる建物です。信仰そのものが真の哲学を築きます。真の哲学とは、人生を歩む道における真の意味での回心です。それゆえ、この真正な「グノーシス(覚知)」は、信仰の発展したものです。この信仰の発展は、イエス・キリストにより、イエス・キリストと一つに結ばれた魂の内で引き起こされます。後にクレメンスはキリスト教的生活の二つの段階を区別します。第一の段階は、共通のしかたで信仰を生きるキリスト信者です。しかし、このキリスト信者も、常に聖性の地平に向けて開かれています。第二の段階は「覚知者(グノースティコス)」です。「覚知者(グノースティコス)」とは、霊的に完全な生活に導かれた人のことです。いずれにせよキリスト信者は、信仰の共通の基盤から探求の道へと出発し、キリストの導きに身を委ね、そこから、真理そのものと、信仰の内容をなすさまざまな真理の認識に至らなければなりません。クレメンスはわたしたちにいいます。このような認識は魂の中で生きた現実となります。それはたんなる理論ではなく、いのちの力です。それは、わたしたちを造り変える愛との一致だからです。キリストを知ることは、たんなる思想ではなく、愛です。この愛はわたしたちの目を開き、人を造り変え、「ロゴス」との交わりを造り出します。「ロゴス」とは、真理でありいのちである神のみことばです。完全な知識であり愛であるこの交わりの中で、完成されたキリスト信者は、観想、すなわち神との一致に達します。
 最後にクレメンスは、人間の究極的な目的は神と似た者となることだという教えを取り上げます。わたしたちは神の像と似姿として創造されました。しかし、このことは挑戦であり、旅路でもあります。実際、人生の目的、すなわち最終目標は、真の意味で神と似た者になることです。このことが可能なのは、神との親和性に基づきます。人間はこの神との親和性を、創造された瞬間に与えられたからです。この神との親和性により、人間はすでにそれ自体として、神の像です。このような親和性によって、人間は神的な存在を知ることができます。人間は、まず信仰を通してこの神的な存在を受け入れます。そして、信仰を生き、徳を実践することを通じて、ついに神を観想するまでに成長できるのです。クレメンスは、このように、完成への道において、知的な要求だけでなく、倫理的な要求をも同じように重視します。二つの要求は同伴します。なぜなら、真理を生きることなしに真理を知ることはできず、また、真理を知ることなしに真理を生きることもできないからです。合理的認識のみによって、神と似た者となり、神を観想することはできません。そのためには、「ロゴス」に従って生きること、すなわち、真理に従って生きることが必要です。それゆえ、影がからだに従うように、よいわざが知的な認識に伴わなければなりません。
 特に二つの徳が「真の覚知者(グノースティコス)」の魂を飾ります。一つはさまざまな情念からの自由(アパテイア)であり、もう一つは愛です。愛は真の意味での情念であり、神との内的な一致を保障します。愛は完全な平和を与え、「真の覚知者」が大きな犠牲に立ち向かうことを可能にします。この犠牲は、キリストに従って、最高の犠牲をささげることも含みます。そして愛は、「真の覚知者」をついには徳の頂上にまで昇らせます。このようにしてクレメンスによって、古代哲学の倫理的な理想である、さまざまな情念からの自由が再定義されました。さまざまな情念からの自由は、神と似た者となるための絶えざる過程の中で、愛と結びつけられたのです。
 こうしてアレキサンドリアのクレメンスは、キリスト教のメッセージとギリシア哲学の対話のための第二の偉大な機会を作りました。ご存知のように、聖パウロは、クレメンスが生まれたアテネのアレオパゴスで、ギリシア哲学との最初の対話の試みを行い、ほとんど失敗しました。聴衆は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒言行録17・32)と述べたからです。今やクレメンスが、もう一度この対話を行い、ギリシア哲学の伝統の中でこの対話を高貴あるものとしました。わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世が回勅『信仰と理性』で述べたように、アレキサンドリアのクレメンスは哲学を「キリスト教信仰への準備となる教え」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』38)と解しました。そして、実際に、クレメンスは、神がギリシア人に「彼ら自身の契約として」(『ストロマテイス』:Stromata 6, 8, 67, 1)哲学を与えたとまでいいます。クレメンスにとって、ギリシア哲学の伝統は、ユダヤ人にとっての律法と同じように、「啓示」に属します。この二つの流れは、究極的には「ロゴス」そのものをめざしています。このようにしてクレメンスは、イエス・キリストへの自らの信仰に「合理性を与える」ことをめざす道をとる決断に従い続けました。クレメンスは、現代のキリスト信者、カテキスタ、そして神学者の模範となることができます。ヨハネ・パウロ二世は神学者にこう勧めたからです。「真理の形而上学的側面を取り入れ、最大限に評価するよう」にと。「そうすれば、・・・・現代哲学およびあらゆる哲学的伝統との間に、批判的な刺激ある対話を打ち立てることができるでしょう」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』105)。
  終わりに、クレメンスが『教育者』の結びに述べた、有名な「『ロゴス』であるキリストへの祈り」のことばをわたしたちのことばとしたいと思います。クレメンスはこう祈り求めます。「あなたの子らを顧みてください」。「どうかわたしたちがあなたの平和の内に生き、あなたの国に行き、沈むことなく罪の流れを渡り、言い表しがたい知恵である聖霊によって平安の地へと移されることができますように。わたしたちは昼も夜も、終わりの日まで、感謝の賛歌を歌います。唯一の父と、・・・・教育者であり教師である子と、聖霊に。アーメン」(『教育者』:Paedagogus 3, 12, 101)。

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