教皇ベネディクト十六世の94回目の一般謁見演説 オリゲネス(二)

5月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の94回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」 […]

5月2日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の94回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の39回目として、前週に続いてあらためて「オリゲネス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書7章7-11節が朗読されました。謁見には30,000人の信者が参加しました。
5月9日(水)から14日(月)まで教皇はブラジル司牧訪問を行います。このため5月9日(水)と16日(水)の一般謁見は開催されません。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週の水曜日の講話で、オリゲネスという重要な人物を取り上げました。オリゲネスは2・3世紀のアレキサンドリアの学者です。前回の講話の中でわたしたちはこのアレキサンドリアの教師の生涯と著作を考察しました。そして、オリゲネスが行った聖書の「三つの読み方」がどのようなものだったか示しました。この聖書の「三つの読み方」は、オリゲネスの著作全体に霊感を与えた核心です。わたしはオリゲネスの教えの二つの側面を扱わずに残しました。今日はそのことをあらためて取り上げます。わたしはこれらの側面がとても重要で現代的な意味をもつと考えています。すなわちそれは、オリゲネスの祈りと教会についての教えです。
  実際、オリゲネスは、重要で常に現代的な意味のある論考の『祈りについて』を著しました。オリゲネスはいつも、聖書釈義と神学の著作を、祈りに関わる経験や示唆と結び合わせます。オリゲネスの神学思想はきわめて豊かなものですが、それはけっしてたんなる学問的な考察にとどまりませんでした。彼の考察は、祈りと神との関係を常に基盤としていたからです。オリゲネスの考えでは、聖書を理解するためには、研究だけでなく、キリストとの親しい関係と祈りが必要です。オリゲネスはこう確信していました。神を知るためのもっとも優れた道は愛です。そして、神を愛することなくして真の意味で「キリストを知ること」(scientia Christi)はできません。オリゲネスは『グレゴリオス・タウマトゥルゴスへの手紙』の中で次のように勧めます。「聖書を『読むこと』(lectio)に努めなさい。忍耐をもってこのことに専念しなさい。神を信じ、神のみ心にかないたいとの意向をもって『読むこと』に励みなさい。このように『読む』間に、自分の前で門が閉じられているのを見いだすなら、たたきなさい。そすれば、門番は門を開いてくれます。この門番についてイエスはこう述べておられます。『門番は彼に門を開く』(ヨハネ10・3)。このようにして『霊的読書』(lectio divina)に専念しなさい。ゆるぎない神への忠実さと信頼をもって、聖書の意味を探求しなさい。そうすれば、聖書は大きく開かれます。あなたはたたき、探求するだけで満足してはなりません。神に関することがらを理解するためには、『祈り』(oratio)が何よりも必要です。主は祈りを勧めるために、次のようにいわれました。『探しなさい。そうすれば、見つかる』。また、『門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』。しかし、それだけでなく、主は続けて次のようにいわれました。『求めなさい。そうすれば、与えられる』(マタイ7・7、ルカ11・9)」(『グレゴリオス・タウマトゥルゴスへの手紙』:Epistula ad Gregorium Thaumaturgum 4)。「霊的読書」(lectio divina)の歴史の中でオリゲネスが「創始者としての役割」を果たしたことがすぐにわかります。ミラノの司教アンブロジオは、オリゲネスの著作を通じて聖書を読むことを学びました。このアンブロジオが後にこの「霊的読書」を西洋世界にもたらします。こうして「霊的読書」は、アウグスチヌスや後に続く時代の修道制の伝統へと受け継がれました。
  すでに述べたように、オリゲネスによれば、神に関する最高の知識は愛から生まれます。それは人間の間でも同じです。ほんとうの意味で深く人を知るには、愛がなければなりません。すなわち、心を開かなければなりません。このことを示すために、オリゲネスはヘブライ語の「知る」という動詞に当時与えられた意味を引き合いに出します。この動詞は人間の愛を表すために用いられました。「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもった」(創世記4・1)。これは、愛に基づく一致が真の意味での知識をもたらすことを示します。男と女の「二人が唯一の肉となる」ように、神と信じる者の「二つは同じ霊となる」のです。このようにしてアレキサンドリアのオリゲネスの祈りは、最高の神秘的な段階に到達します。それはオリゲネスの『雅歌講話』に見られる通りです。『雅歌講話』第1講話のある箇所で、オリゲネスは次のように告白します。「しばしばわたしは、花婿が間近に近づいてこられたのを感じました――神がそのことの証人です――。その後、神は突然離れ去り、わたしは探していたものを見いだせませんでした。わたしがあらためて神が来てくださることを願うと、神は時として戻ってきてくださいました。そして神がわたしに姿を現し、わたしが神を手でとらえようとすると、神は再び逃れ去りました。神が姿を消すと、わたしは再び探すのでした。・・・・」(『雅歌講話』:In Canticum Canticorum homiliae 1, 7)。
  わたしは、わたしの敬愛すべき前任者が『新千年期の初めに』の中で、真の意味でのあかしに基づいて述べていることを思い起こします。教皇は次のように信者に示します。「真実な愛の対話は、祈りを発展させていきます。愛の対話によって、人は全面的に神のものとなり、聖霊の息吹に触れて打ち震え、御父のふところに子として自己を委ねるまでになります」。ヨハネ・パウロ二世は続けて述べます。「これらすべては、恵みに支えられてのことです。とはいえ、これには強烈な霊的努力を要し、苦しい清めの道(暗夜)も通らなければなりません。しかし、神秘家たちはいろいろと可能な形で体験する『婚姻による一致』の、ことばに表せないほどの喜びに達します」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年期の初めに』33)。
  ついにわたしたちは、オリゲネスの教会に関する教えと、まさにこの教えに含まれた、信徒の共通祭司職に関する教えに到達しました。実際、アレキサンドリアのオリゲネスが『レビ記講話』第9講話の中で述べるように、「この話はわたしたち皆に関わります」(『レビ記講話』:In Leviticum homiliae 9, 1)。オリゲネスは同じ講話の中で、アロンの二人の息子が死んだ後、アロンが「決められた時以外に」(レビ記16・2)至聖所に入ることを禁じられたことに触れます。オリゲネスは信者に勧告します。「ここから次のことがわかります。ふさわしい準備なしに、すなわち、祭司の祭服をまとわず、定められた献げ物を準備せず、神にふさわしい献げ物をささげずに至聖所に入った者は、かならず死ぬということです。・・・・この話はわたしたち皆に関わります。実際それは、どのように神の祭壇に近づけばよいかを知るようにわたしたちに命じるからです。あなたがたは、祭司があなたがたにも、すなわち、神の教会と信じる民にも与えられたことを知らないのですか。ペトロが信じる者に語ることばを聞きなさい。ペトロはいいます。『選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民』(一ペトロ2・9)。それゆえあなたがたは祭司です。なぜならあなたがたは『祭司の民』だからです。だからあなたがたは神にいけにえをささげなければなりません。・・・・しかし、ふさわしいしかたでいけにえをささげるために、あなたがたは他の人と共通の服とは異なる、清い服をまとわなければなりません。そして神への熱情が必要です」(『レビ記講話』:In Leviticum homiliae 9, 1)。
  「腰に締めた帯」と「祭司の服」(それは清さと誠実な生活を示します)、また「絶えずともされた灯火」(それは信仰と聖書についての知識を示します)――この二つが、普遍的祭司職を行うために不可欠な条件となります。普遍的祭司職は、清さと誠実な生活、信仰と聖書についての知識を求めるからです。まして、このような条件が役務としての祭司職のために不可欠なものであることは、明らかです。清い生活と、また何よりもみことばを受け入れ、学ぶこと――この条件は、キリスト信者の共通祭司職における真の意味で固有な「聖性の位階」を形づくります。オリゲネスは完徳の道の頂点に殉教を置きます。『レビ記講話』第9講話の中でも、オリゲネスは「焼き尽くす献げ物への情熱」について述べます。「焼き尽くす献げ物への情熱」とは、信仰と聖書の知識のことです。この二つが、司祭職を行う者の祭壇の上で消えることがあってはならないからです。それからオリゲネスは続けて述べます。「しかし、わたしたちは皆、自分自身の内に」この火だけでなく「焼き尽くす献げ物ももっています。そしてこの焼き尽くす献げ物でわたしたちは祭壇に火をともします。それは祭壇を常に燃え上がらせるためです。もっているすべてのものを捨て、自分の十字架を担い、キリストに従うなら、わたしは自分の焼き尽くす献げ物を神の祭壇の上にささげることになります。自分のからだを焼かれるためにささげ、愛をもって、殉教の栄光を得るなら、わたしは神の祭壇に自分の焼き尽くす献げ物をささげることになるのです」(『レビ記講話』:In Leviticum homiliae 9, 9)。
  この歩み尽くすことのできない完徳の道は「わたしたち皆に関わります」。なぜなら、「わたしたちの心のまなざし」は、知恵と真理そのものであるかた、すなわちイエス・キリストを仰ぎ見るからです。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(ルカ4・16-30)ときにナザレのイエスが行った説教を解説しながら、オリゲネスはわたしたちにこう語りかけているように思われます。「もし望むなら、今日も、この会衆の中で、あなたがたは目を救い主に注ぐことができます。あなたが深い心のまなざしを向けて、知恵と真理であり、神のひとり子であるかたを仰ぎ見るなら、あなたの目は神を見ます。聖書に述べられた、目を神に注いでいたあの会衆はいかに幸いなことか。この会衆が同じようにあかしされることを、わたしは心から望みます。そのとき、洗礼を受けていない者も、信者も、女も男も、幼い子どもも、すべての人が目を、それも肉体の目ではなく、心の目を、イエスに注ぎます。・・・・ああ主よ。わたしたちの上にはあなたの顔の光が注がれています。栄光と力は世々に主のものです。アーメン」(『レビ記講話』:In Leviticum homiliae 32, 6)。

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