教皇ベネディクト十六世の95回目の一般謁見演説 ブラジル司牧訪問を振り返って

5月23日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の95回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月9日(水)から14日(月)まで行ったブラジルへの司牧訪問を振り返る講話を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書6章38-40節が朗読されました。謁見には25,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の一般謁見の中でわたしは、5月9日から14日まで行ったブラジルへの使徒的訪問についてお話ししたいと思います。2年間教皇職を務めた後、ついにラテンアメリカを訪れることができたことを喜ばしく思います。ラテンアメリカはわたしがたいへん愛する地であり、またそこには、世界のカトリック信者のかなりの部分の人が住んでいるからです。わたしが向かったのはブラジルですが、わたしはラテンアメリカ大陸全体を抱擁することを望みました。なぜなら、わたしは第5回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会(5月13日-31日)という教会行事のために招かれたからです。わたしは、親愛なる兄弟である司教の皆様、特にサンパウロとアパレシーダの司教の皆様から受けた歓迎に深く感謝します。ブラジル大統領と他のブラジルの当局者が心から寛大な協力をしてくださったことに感謝します。大きな愛情をもって、ブラジルの国民の皆様に感謝します。皆様は暖かくわたしを迎えてくださり――それは本当に豊かで感動的な歓迎でした――、また、注意深くわたしのことばを聞いてくださったからです。
  わたしの訪問は、何よりもまず、神に賛美をささげるために行われました。神はラテンアメリカの民の間で「驚くべきわざ」を行われたからです。また、信仰がラテンアメリカの民の生活と文化を500年以上にわたって導いたからです。この意味で、わたしの訪問は巡礼でした。この巡礼は、ブラジルの守護者であるアパレシーダの聖母の巡礼所で頂点に達しました。信仰と文化の関係というテーマは、わたしの敬愛すべき先任者であるパウロ六世とヨハネ・パウロ二世の心の中で常に抱かれていたものです。わたしもこのテーマをあらためて取り上げたいと望みました。それは、ラテンアメリカとカリブの教会の信仰の歩みを強めるためでした。この信仰の歩みは、豊かな歴史と、民間信心、芸術を生み出してきましたし、今も生み続けています。この営みは、先コロンブス期の豊かな伝統との対話や、ヨーロッパやその他の大陸のさまざまな影響のもとで行われてきました。もちろん、輝かしい過去を思い起こすとき、ラテンアメリカへの宣教のわざに伴った暗い側面を見過ごすことはできません。実際、植民地建設者たちによって先住民がこうむった苦しみと不正を忘れることはできません。先住民はしばしば基本的人権を踏みにじられたからです。このけっして正当化することのできない犯罪について述べるのは当然のことです。この犯罪はすでに当時から、バルトロメ・デ・ラス・カサス(1484-1566年)のような宣教者や、サラマンカ大学のフランシスコ・デ・ビトリア(1483/1486頃-1546年)のような神学者によって非難されていました。しかし、だからといって、過去5世紀にわたりラテンアメリカの民の間で神の恵みによって行われた驚くべきわざに感謝することをやめることはできません。福音はラテンアメリカ大陸を総合する主軸となりました。この福音は、さまざまな国によって異なる側面を示しながら、ラテンアメリカの民に共通なアイデンティティを表現しました。グローバル化の時代である現代にあっても、このカトリック的なアイデンティティは適切な応答を行うことができます。そのために、人びとは継続的な霊的養成と、教会の社会教説の原則によって導かれる必要があります。
  ブラジルはキリスト教的価値観に深く根ざした大きな国ですが、大きな社会的・経済的問題も抱えています。こうした問題を解決するために、教会は共同体の霊的・道徳的な力を動員しながら、国内の他の健全な勢力と適切な合意点を見いださなければなりません。積極的な要素としては、ブラジル教会の創造性と豊かさを指摘することができます。そこでは常に新たな運動団体と新たな奉献生活の会が生まれているからです。多くの信徒の寛大な献身もこれに劣らず称賛すべきです。彼らは教会が促進するさまざまな活動に積極的に取り組んでいます。
  ブラジルは発展の新しいモデルを世界に示しうる国でもあります。実際、キリスト教文化は、父である神との関係における人格の尊厳の回復から始めて、人間と被造物の「和解」を促進することができます。その雄弁な例は「希望の農場(ファゼンダ・ダ・エスペランサ)」です(5月12日)。「希望の農場(ファゼンダ・ダ・エスペランサ)」は、薬物中毒の暗いトンネルから抜け出ることを望む若者を支援する共同体のネットワークです。わたしが訪問した施設では――そこでわたしが受けた深い印象は今も生き生きと心に残っています――、聖クララ会の修道院の存在が重要な役割を果たしていました。このことは現代世界にとって象徴的な意味をもつように思われます。現代世界は心理的・社会的な「リハビリテーション」を必要としています。しかし、それはもっと深い意味で、霊的なリハビリテーションを必要としているのです。もう一つ象徴的な意味をもったのは、ブラジル生まれの最初の聖人、フレイ・アントニオ・ディ・サンタンナ・ガルヴァン(1739-1822年)の列聖式を喜びのうちに行うことができたことでした(5月11日)。おとめマリアに深い信心をもち、聖体とゆるしの秘跡の使徒である、この18世紀のフランシスコ会の司祭は、生前から「平和と愛の人」と呼ばれていました。この聖人のあかしは、聖性が真の意味で革命であることも確認させてくれます。この革命は、教会と社会の真の変革をもたらすことができるのです。
  サンパウロの司教座聖堂でわたしはブラジルの司教団との集会を行いました(5月11日)。ブラジルの司教団は、世界最大の司教協議会です。この司教団にペトロの後継者の支えを示すことが、わたしの訪問の主な目的の一つでした。なぜなら、わたしはブラジルにおける福音宣教が大きな困難に直面していることを知っていたからです。わたしはわたしの兄弟である司教たちに、新しい福音宣教という取り組みを進め、強化するよう励ましました。そして、しっかりとした方法に基づいて神のことばの宣教を発展させるように勧めました。それは、広く人びとの内面にある宗教性が深められて、成熟した信仰となり、個人としても共同体としても、イエス・キリストの神と一致できるようになるためです。わたしは使徒言行録に述べられた初期キリスト教会のあり方を至るところで復興するように司教たちを促しました。すなわち、信仰教育と、秘跡の生活と、愛のわざを熱心に行うことです。わたしはこのブラジルの福音の忠実な奉仕者たちの努力を知っています。彼らはこの福音を、縮小することも、いかなるものと混同することもなしに示そうとしています。識別をもって、ゆだねられた信仰の遺産を守っています。おもに信徒の養成を通じて、社会の発展の推進を常に心がけています。信徒は政治と経済の分野で責任を担うよう招かれているからです。わたしはブラジルの司教団との交わりを深めることができたことを神に感謝します。そして、彼らのことをいつも祈りの中で思い起こし続けます。
  今回の訪問を特徴づけるもう一つの行事は、もちろん、青年との集会です(5月10日)。青年は未来のための希望であるだけでなく、今の教会と社会にとっても生きた力です。それゆえ、ブラジルのサンパウロで青年の主催で行われた夕の祈りは、希望の祭典でした。この祭典は「金持ちの青年」に対するキリストのことばによって照らされました。この「金持ちの青年」はキリストにこう尋ねました。「先生、永遠のいのちを得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19・16)。イエスは何よりもまず、いのちへの道として、掟を示します。それからこの青年を、すべてのものを捨てて自分に従うように招きます。現代の教会も同じことをします。すなわち教会は、まずあらためて掟を示します。掟は個人と社会の善益のために自由を教育する真の方法だからです。何よりも教会は、「第一の掟」すなわち愛の掟を示します。なぜなら、愛がなければ、掟も人生に完全な意味を与え、真の幸福をもたらすことができないからです。イエスにおいて神の愛と出会い、この愛を人びとの中で行うことによっていのちへの道を歩む人だけが、イエスの弟子また宣教者となります。わたしは青年たちを招きました。同世代の青年たちの使徒となってください。またそのために、常に人間的・霊的教育を大事にしてください。結婚と、結婚を準備する道を、貞潔と責任をもって心から尊重してください。また、神の国のための奉献生活への召命にも心を開いてくださいと。まとめていえば、わたしは青年たちを、自分たちの若さという「富」を用いて、教会の若いいのちにあふれた顔となってくれるよう励ましたのです。
  今回の訪問の頂点は、アパレシーダの聖母の巡礼所で行われた、第5回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会の開会式でした(5月13日)。5月の終わりまで行われる、この大規模で重要な会議のテーマは、「イエス・キリストの弟子と宣教者――わたしたちの民が『道であり、真理であり、いのちである』イエス・キリストのうちにいのちを得るために」です。「弟子と宣教者」ということばは、マルコによる福音書が使徒たちの召命について述べたことばに対応しています。「(イエスは)十二人を任命し、使徒と名づけられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させるためであった」(マルコ3・14-15)。それゆえ「弟子」ということばは、イエスとの交わりと友愛のうちに行われる、イエスに学び、イエスに従うことを思い起こさせます。「宣教者」ということばは、弟子となることの結果を表します。すなわち、わたしたちが知り、自分のものとした生きた経験と、真理と、愛をあかしし、伝えることです。弟子と宣教者になるということは、神のことばや、聖体を初めとする秘跡と密接に結ばれていること、また、教会の教えに聞き従いながら教会の中で生活することを意味します。イエスの弟子となり、「イエスとともにいたい」という望みを喜びをもって新たにすること――これが、「キリストとともに再出発する」宣教者となるための基本的な条件です。教皇ヨハネ・パウロ二世が2000年の大聖年の後、全教会に命じたとおりです。わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世は常に、福音宣教が「熱意と方法と表現において新たに」行われることを強調しました。1983年3月9日のハイチにおけるラテンアメリカ司教会議(CELAM)総会への演説で述べられたとおりです(Insegnamenti VI/1 [1983], 698参照)。わたしは今回の使徒的訪問によって、同じ道を歩み続けてくださるよう司教の皆様に勧めました。そしてわたしは、回勅『神は愛』の統一的な展望を示しました。この展望は分かちがたいしかたで神学的かつ社会的なものです。それは次の表現にまとめられます。「いのちを与えるのは愛です」。「神の現存、受肉した神の子との友愛、みことばの光――これらが常に、現代社会において正義と愛を存在させ、力あるものとするための根本的な条件です」(「第5回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会開会演説」4:L’Osservatore Romano, 14-15 maggio 2007, p. 14)。
  おとめマリアはグアダルーペの聖母の名で全ラテンアメリカの守護者としてあがめられています。わたしはこのおとめマリアの母としての執り成しと、新しいブラジルの聖人フレイ・アントニオ・ディ・サンタンナ・ガルヴァンとに、この忘れることのできない使徒的訪問の実りをゆだねます。

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