教皇ベネディクト十六世の96回目の一般謁見演説 テルトゥリアヌス

5月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の96回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の40回目として、「テルトゥリアヌス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書12章24-26節が朗読されました。謁見には32,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の講話でわたしたちは、ブラジル訪問のために中断していた連続講話を再開します。そして古代教会の偉大な人物についての話を続けます。この人びとは現代のわたしたちにとっても信仰の師であり、キリスト教信仰が永遠に現代的な意味をもつことの証人です。今日はアフリカの人テルトゥリアヌス(160以前-220年以降)についてお話しします。テルトゥリアヌスは、2世紀末から3世紀の初めに、ラテン語によるキリスト教著作の著述を創始しました。ラテン語による神学はテルトゥリアヌスから始まります。テルトゥリアヌスの活動は決定的な成果をもたらしました。この成果を過小評価することは許されません。テルトゥリアヌスの影響はさまざまな分野に及びました。すなわち、言語と古典文化の再興、世における共通の「キリスト教的な魂」の究明、人間の共生への新たな提案の表明などです。テルトゥリアヌスの生没に関する正確な日付はわかりません。その代わりわたしたちにわかっているのは、彼がカルタゴの出身であること、2世紀末頃活動したこと、両親と異教の教師から修辞学、哲学、法律、歴史に関してしっかりとした教育を受けたことです。彼は(おそらく)キリスト教徒の殉教者の模範に引きつけられてキリスト教に改宗しました。テルトゥリアヌスは197年にそのもっとも有名な著作群の発表を始めました。しかし、あまりにも個人的に真理を探究したことと、その激しい性格のために(テルトゥリアヌスは厳格な人でした)、彼は次第に教会との交わりから離れ、モンタノス派に加わることになりました。にもかかわらず、明快な言語力を伴う独創的な思想のゆえに、テルトゥリアヌスは古代キリスト教文学において揺るぐことのない際立った位置にいます。
  テルトゥリアヌスの護教的著作は何よりも有名です。テルトゥリアヌスの護教的著作は主に二つのことを目指しています。一つは、新しい宗教であるキリスト教に向けられた異教徒の強い非難に反駁すること。もう一つは(これはもっと積極的かつ宣教的な性格をもちますが)、当時の文化と対話しながら福音のメッセージを伝えることでした。テルトゥリアヌスのもっとも有名な著作である『護教論』は、政治権力者が教会に対して行った不正な行為を告発します。キリスト教徒の教えと慣習を説明し、弁護します。新しい宗教であるキリスト教と、当時の主な哲学思潮の違いを明らかにします。聖霊の勝利を示します。聖霊は、迫害者の暴力に対して、殉教者の血と苦しみと忍耐で立ち向かうからです。アフリカの人テルトゥリアヌスは述べます。「いかにあなたがたの残酷さがより手の込んだものになったとしても、それはすべてなんの役にも立たない。それはむしろ、われわれの宗教の魅力となっているのだ。あなたがたがわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである(semen est sanguis christianorum!)」(『護教論』:Apologeticum 50, 13〔鈴木一郎訳、『キリスト教教父著作集14 テルトゥリアヌス2』教文館、1987年、117-118頁〕)。真理のための殉教と苦しみはついには勝利を収めます。それは全体主義的な体制の残酷さや暴力よりも強いのです。
  しかし、同時にテルトゥリアヌスは、すべての偉大な護教家と同じように、積極的なしかたでキリスト教の本質を伝えなければならないと語ります。そのために彼は、思弁的な方法を用いて、キリスト教教義の合理的な基盤を明らかにしようとします。テルトゥリアヌスは体系的にキリスト教教義を研究して、「キリスト教徒の神」について述べ始めます。護教家テルトゥリアヌスはいいます。「われわれが信じているのは、『一なる神』である」。続いてテルトゥリアヌスは、彼のことば遣いの特徴である対照法と逆説を用いながらいいます。「その神は眼に映ることがあるかもしれぬが、不可視である。恩寵により啓示はされるが、理解しがたい。人の感覚に感じとられるかもしれないが、超感覚的である。それほど神は真理そのものであり偉大である」(同:ibid. 17, 1-2〔前掲鈴木一郎訳、47-48頁〕)。
  さらにテルトゥリアヌスは三位一体の教義の発展において大きな前進を遂げました。テルトゥリアヌスはこの偉大な神秘をラテン語で言い表すために適切な用語をわたしたちに与えてくれたのです。すなわち彼は、「一つの実体(una substantia)」と「三つの位格(tres personae)」という用語を導入しました。同様にテルトゥリアヌスは、神の子にして真の人であるキリストの神秘を言い表すための正しい用語も大いに発展させました。
  アフリカの人テルトゥリアヌスは聖霊についても論じています。彼は聖霊の位格的かつ神的な性格を次のように示します。「われわれは信じる。イエス・キリストは約束に従って御父を通して聖霊を遣わされた。この聖霊は、弁護者であり、父と子と聖霊を信じるすべての者の信仰を聖なるものとするかたである」(同:ibid. 2, 1)。アフリカの人テルトゥリアヌスは、教会についての著作も多数著しました。テルトゥリアヌスは教会を常に「母」と呼びます。テルトゥリアヌスは、モンタノス派に加わった後も、教会がわたしたちの信仰の母であり、わたしたちのキリスト教的生活の母であることをけっして忘れませんでした。テルトゥリアヌスはキリスト信者の道徳的生活と来世についても述べています。テルトゥリアヌスの著作が重要なのは、それが、至聖なるマリア、聖体、結婚、ゆるしの秘跡、ペトロの首位性、祈りなどについてのキリスト教共同体の生きた考え方を反映しているからです。特に、キリスト教徒が迫害され、少数派としていなくなるのではないかと思われた時代にあって、護教家テルトゥリアヌスはキリスト教徒に希望をもつよう促しました。テルトゥリアヌスの著作の中で、希望はたんなる孤立した徳ではなく、キリスト教的生活のあらゆる側面を包含する態度です。わたしたちが希望を抱くのは、未来がわたしたちのものだからです。未来が神のものだからです。それゆえ、主の復活は、わたしたちの将来の復活の基盤として示されます。また、主の復活は、キリスト信者の信仰の中心的な対象です。アフリカの人テルトゥリアヌスははっきりと述べます。「肉体は復活する。肉体の全体が、自分の肉体が、完全な肉体が復活するのである。どこにいようとも、肉体は神と人の間のもっとも忠実な仲介者であるイエス・キリストによって、神のみ前に置かれる。イエス・キリストは神を人と和解させ、人を神と和解させるかただからである」(『死者の復活について』:De resurrectione mortuorum 63, 1)。
  人間的な観点からみると、テルトゥリアヌスは悲劇の人だったといえます。年月の経過に伴い、テルトゥリアヌスはますますキリスト信者に要求を行うようになりました。テルトゥリアヌスは、キリスト信者がどのような状況にあっても、特に迫害の中で、英雄的に行動することを求めます。テルトゥリアヌスは自分の主張に固執し、多くの人を容赦なく批判し、その結果、当然のことながら孤立しました。テルトゥリアヌスについては、このほかにも、今日扱うことのできない多くの問題があります。その神学・哲学思想や、政治体制と異教社会に対する態度に関する問題です。テルトゥリアヌスは偉大な道徳的知識人であり、キリスト教思想に大きな貢献を行いました。それゆえこのような人物はわたしに多くのことを考えさせます。たしかにテルトゥリアヌスは、最終的に、単純さや、教会とつながり、自分の弱さを受け入れ、他者と自己に寛容であろうとする謙遜さを欠くところがありました。人が自分の思想を偉大なものと考えるなら、ついにはこの偉大さを失うことになります。偉大な神学者の根本的な特徴は、謙遜に教会にとどまることです。教会と自らの弱さを受け入れることです。なぜなら、神のみが完全に聖なるかただからです。これに対して、わたしたちは常にゆるしを必要とする存在です。
  とはいえ、テルトゥリアヌスは依然として初代教会の興味深い証人です。当時、キリスト教徒は古典古代の遺産と福音のメッセージの出会いにおいて、真の意味で「新しい文化」の担い手でした。テルトゥリアヌスの有名なことばが述べるとおり、わたしたちの魂は「本性的に(naturaliter)キリスト教的」(『護教論』:Apologeticum 17, 6)です。この魂のうちに、テルトゥリアヌスは、本来の人間的な価値とキリスト教的な価値の永遠の連続性を見いだします。他の考察の中で、テルトゥリアヌスは福音のことばを直接借りていいます。「キリスト教徒はいかなる敵も憎むことができない」(同:ibid. 37)。それゆえ、信仰の選択が否応なくもたらす道徳的な結果は、生活の法としての「非暴力」です。諸宗教をめぐる激しい議論が行われる中で、この教えのもつきわめて現代的な意味は明らかです。
  要するに、テルトゥリアヌスの著作の中には、現代においても取り組むよう求められる多くのテーマが見いだされます。これらの著作はわたしたちを実り豊かな内面的探究へと招きます。わたしも、この探究を行うよう、すべての信者に促します。それは、信者がいっそう人びとを納得させるしかたで「信仰の基準」を言い表すことができるようになるためです。もう一度テルトゥリアヌスに戻るなら、「われわれはこの信仰の基準に従って、唯一の神が存在すること、このかたが世界の造り主にほかならないことを信じる。このかたは、すべてのものに先立って生まれたみことばによって、無からすべてのものを造られたのである」(『異端者への抗弁』:De praescriptione haereticorum 13, 1)。

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