教皇ベネディクト十六世の100回目の一般謁見演説 エルサレムのチリロ

6月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の100回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いま […]

6月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の100回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の44回目として、「エルサレムのチリロ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、使徒言行録2章38-39節が朗読されました。パウロ六世ホールでの謁見には約7,000人の信者が参加しました。

演説の後、イタリア語を話す巡礼者に向けて行われたイタリア語による祝福の中で、教皇は、謁見に参加した「国際成体幹細胞学会」参加者に向けて、次のように述べました。
「ローマ大学(ラ・サピエンツァ大学)の主催で行われる、国際成体幹細胞学会参加者の皆様にごあいさつ申し上げます。この学会のテーマは、成体(体性)幹細胞を用いた、心臓疾患における自己増殖細胞による治療の進展です。こうした治療に関して、理性と科学に支えられた教会の立場は明快です。科学の研究を奨励し推進することは正しいことです。ただしその場合、科学の研究はけっして他の人間存在に損害を与えてはなりません。人間存在の尊厳はその存在の最初の段階から不可侵だからです」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  わたしたちは今日、エルサレムのチリロ(Kyrillos 315頃-386/387年)に目を向けます。チリロの生涯では二つの次元が組み合わされています。一つは司牧的配慮であり、もう一つは(それは不本意ながら行われたものでしたが)当時の東方教会を悩ませていた論争への関与です。315年にエルサレムないしその近辺で生まれたチリロは、最高の文学的教育を受けました。この教育は、聖書研究を中心とした、チリロの教会に関する知識の基盤となりました。チリロは司教マクシモスによって司祭に叙階されました。348年にマクシモスが死んで葬られた後、チリロはアカキオス(366年頃没)によって司教に叙階されます。アカキオスはパレスチナのカイサリアの有力な首都大司教で、アレイオス派でした。アカキオスはチリロも自分と同じ考えだと確信していました。そのためチリロはアレイオス派の主張を認めて司教任命を受け入れたと考えられました。
  実際にはチリロはすぐに教理的にも裁治的にもアカキオスと対立しました。チリロは自分の司教座のカイサリアの首都大司教座からの自律を要求したからです。チリロは20年以上の間に3回追放されました。357年の1回目の追放はエルサレム司教会議の罷免によるものでした。次いで360年にアカキオスにより2回目の追放が行われました。最後の、もっとも長く、11年間に及んだ367年の3回目の追放は、アレイオス派のウァレンス帝(在位364-378年)によるものでした。皇帝の死後、378年になって、ようやくチリロは最終的に司教座を回復し、信者に一致と平和をもたらしました。
  当時の一部の資料が疑っているとはいえ、古代の他の資料は等しくチリロの教義の正統性を裏づけています。その中で最も権威のある資料は、381年のコンスタンチノープルでの2回目の普遍公会議後に行われた、382年の司教会議の手紙です。チリロはコンスタンチノープル公会議で重要な役割を果たしました。ローマ教皇にあてたこの手紙の中で、東方教会の司教たちは、チリロの決定的な正統性と、チリロの司教叙階の正当性、そしてチリロの司牧的奉仕職のいさおしを正式に認めます。この奉仕職はチリロの死により387年に終わります。
  チリロは24講話から成る『教話(カテケーシス)』を残しました。この『教話』はチリロが350年頃、司教として書いたものです。序文のあいさつの「プロカテケーシス」に続く、最初の18講話は、洗礼志願者ないし「照らされた人びと(ギリシア語でフォーティゾメノイ)」にあてられたもので、聖墳墓教会で行われました。このうち最初の部分(第1-第5講話)は、洗礼を受ける前の態度、異教の習慣からの回心、洗礼の秘跡、信条に含まれる教えの10の真理について述べます。続く部分(第6-第18講話)は、反アレイオス派の主張に基づく、エルサレム信条についての「カテケーシスの続き」から成ります。「秘義教話」と呼ばれる、最後の5講話(第19-第23講話)のうち、前半の2講話は洗礼式の解説を行い、後半の3講話は堅信、キリストの聖体、感謝の祭儀を扱います。主の祈りについての説明も含まれます。洗礼、堅信、聖体の3つの秘跡への入門と並行して、主の祈りは祈りへの入門課程の基盤となります。 
  異教徒やユダヤ人キリスト者やマニ教徒との論争のただ中で、キリスト教信仰の教育の基盤が成長していきました。この発展した教育は、旧約の約束の実現に基づき、豊かなイメージを含んだことばで行われました。カテケーシス(信仰教育)は、キリスト教共同体の生活全体、特に典礼生活という広い関連の中に含まれる、重要な要素でした。キリスト教共同体という母胎の中で、兄弟の祈りとあかしに伴われながら、将来のキリスト信者が宿りました。チリロの講話は、全体として、洗礼によってキリスト信者が生まれ変わることについての総合的なカテケーシスとなっています。チリロは洗礼志願者に向かっていいます。「あなたがたは実は教会という網の中にすなどられたのです(マタイ13・47参照)。すすんで捕えられなさい。逃げようとなどしないでください。イエスがあなたがたをすなどられたのは、死なせるためでなく、死を越えた生命を与えるためです。あなたがたは死に、そしてよみがえるべき者なのです(ローマ6・11、14参照)。・・・・罪に対して死んで、今日から義のために生きてください」(『カテケーシス』序:Procatechesis, 5〔「エルサレムのキリロスのカテケシス」G・ネラン、川添利秋訳注、『ろごす キリスト教研究叢書XII』紀伊國屋書店、1963年、113頁参照〕)。
  「教理」の観点からは、チリロは聖書の予型論に基づいてエルサレム信条を解説します。旧約と新約は、宇宙の中心であるキリストを目指しながら、ともに「響き合う」関係にあるからです。予型論はヒッポのアウグスチヌスによってはっきりと述べられることになります。「旧約は新約を包み隠しており、新約は旧約を現しています」(『教えの手ほどき』:De catechizandis rudibus, 4, 8〔熊谷賢二訳、創文社、1964年、84頁〕)。チリロの「道徳」についてのカテケーシスは、教理についてのカテケーシスと深く結びついています。教義は次第に魂へと降りていきます。すると魂は、洗礼のたまものである、キリストにおける新しい生き方に基づいて、異教の習慣を改めるよう求められます。最後に、「秘義教話」は教育の頂点を示します。チリロはこの「秘義教話」を、もはや洗礼志願者に対してでなく、復活祭の聖週間に洗礼を受けた人びと、あるいは新しく信者になった人びとに向けて行います。チリロは、復活徹夜祭の洗礼式で隠され、あらわにされていなかった神秘を見いだすように彼らを導きます。信仰の光に照らされ、洗礼の力に強められながら、新しく信者となった人びとは、洗礼式を行ってすぐに、神秘をもっとよく理解できるようになるのです。
  チリロは特にギリシア生まれの新受洗者に対して、彼らに適した視力に訴えかけます。儀式から神秘に移行することによって、人びとを驚かす心理的効果と、復活祭の生き生きとした体験が与えられます。洗礼の神秘を説明する個所はこう述べます。「3回水に浸かり、また水から上がりましたが、それでキリストの3日間の埋葬を暗に象徴していたのです。というのも、わたしたちの救い主が地下で3昼夜を過ごしたように(マタイ12・40参照)、あなたがたも最初に水から上がったことでキリストの地中の最初の日を模倣していたのです。というのも、夜の中にいる人がもはや何も目にせず、昼の中にいる人が光の中に生きるのと同じように、水の中に入ることで夜の中にいるように何も見えず、水から上がったことで再び昼にいるようになったのです。そして同時に死にかつ誕生したのであって、あの救いの水はあなたがたにとって墓であり母でもあったのです。・・・・あなたがたの場合には・・・・『死ぬにも時があり、生まれるにも時がある』ということになるわけです。そして一つの時がそれらの両者を造り出したのです」(『洗礼志願者のための秘義教話』:Mystagogiae 2, 4〔大島保彦訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、151頁〕)。
  わたしたちが理解すべき神秘は、神の計画です。この神の計画は、教会の中で、キリストの救いのわざを通して実現されました。秘義の次元は、象徴の次元を伴います。象徴は、神秘が「爆発」させる霊的体験を表します。すでに述べた3つの要素(教理、道徳、秘義)に基づく聖チリロのカテケーシスから、霊的なカテケーシスが世界中で生まれました。秘義の次元は他の二つの次元(教理と道徳)を一つにまとめ、秘跡の典礼へと導きます。この秘跡の典礼の中で人間全体の救いが実現します。
  何よりも求められているのは、このような完全なカテケーシスです。肉体と霊魂と霊を巻き込む、この完全なカテケーシスは、現代のキリスト信者の信仰教育にとっても依然として象徴的なものであり続けます。主に願いましょう。主の助けによって、わたしたちがキリスト教を理解することができますように。キリスト教は、真の意味でわたしたちの全存在を包み、わたしたちを、真の神にして真の人であるキリストの信頼の置ける証人とするからです。

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