教皇ベネディクト十六世の2007年7月1日の「お告げの祈り」のことば 自由と、キリストに従うこと

教皇ベネディクト十六世は、年間第13主日の7月1日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリ […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第13主日の7月1日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はまずイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「コロンビアから、バジェデルカウカ県の県会議員11人の残忍な殺害についての悲しい知らせが届きました。この県会議員たちは5年以上、コロンビア革命軍によって拘束されていました。わたしはこれらの殺害された人びとの安息のために祈ります。そして、深い悲しみのうちにある彼らのご家族と、同国人への憎悪によって再び苦しめられている、愛するコロンビアの人びとと心を合わせます。わたしはあらためて悲しみに満ちた呼びかけを行います。どうかあらゆる監禁をただちにやめ、こうした容認しえない形の暴力の犠牲となっているすべての人を、彼らを心から愛する家族のもとに戻してください」。
コロンビアの左翼武装組織コロンビア革命軍(FARC)は、6月28日、拘束していたバジェデルカウカ県の県会議員12人のうち11人が6月18日に死亡したことを発表しました。議員たちは2002年4月に拉致されていました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の主日のミサの聖書朗読は、魅力的なテーマについて黙想するようわたしたちを招きます。このテーマは、「自由と、キリストに従うこと」と要約できます。福音書記者ルカはこう述べます。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9・51)。わたしたちは、「決意」という表現によって、キリストの自由をかいま見ることができます。実際、キリストは、エルサレムで十字架上の死が自分を待ち受けていることを知っておられました。しかしキリストは、御父のみ旨に従い、愛のためにご自身をささげました。この御父への従順のうちに、イエスは、愛に動かされて自覚的な選択を行うことによって、ご自分の自由を実現されたのです。イエス以上に自由なかたがいるでしょうか。イエスは全能だからです。しかし、イエスは、恣意や支配の形でご自分の自由を用いませんでした。イエスは自由を奉仕として用いました。このようなしかたでイエスは自由の内容を「満たした」のです。そうしなければ、自由は、何かをすることもできれば、しないこともできる、「空虚な」可能性のままだったからです。人間の人生そのものと同じように、自由は愛から意味を与えられます。実際、どちらの人がより自由といえるでしょうか。すべての可能性を失うことを恐れて、それらをとっておく人でしょうか。それとも、人びとに奉仕するために自分をささげることを「決意」して、愛のために、いのちで満たされる人でしょうか。この人はこの愛を与えるとともに、与えられるのです。
  使徒パウロは、(現在のトルコの)ガラテヤのキリスト信者への手紙の中でいいます。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5・13)。肉に従って生きるとは、人間本性の自己中心的な傾向に従うことです。これに対して、霊に従って生きるとは、思いと行いにおいて、キリストがわたしたちに与えてくださった神の愛によって導いていただくことです。それゆえキリスト信者の自由は、自分の思いのままに振舞うこととはまったく違います。キリスト信者の自由とは、十字架上での犠牲に至るまでご自身をささげた、キリストに従うことです。逆説的に思われるかもしれませんが、主は、ご自身の最高の自由を十字架上で体験しました。十字架は愛の頂点だからです。人びとはカルワリオ(されこうべ)で叫びました。「神の子なら、十字架から降りるがいい」。主はまさに十字架上にとどまることによって、子としての自由を示しました。それは、御父のあわれみ深いみ心を完全に成し遂げるためでした。真理についてあかしした他の多くの人びとも、この体験にあずかりました。彼らは、牢獄の独房の中でも、また拷問によって脅されても、自由であり続けられることを示しました。「真理はあなたたちを自由にする」。真理に属する人は、いかなる権力の奴隷となることもありません。それどころか、彼らは自由に兄弟に仕えることができるのです。
  至聖なるマリアを仰ぎ見ようではありませんか。主の謙遜なはしためであった、このおとめは、霊的な人間の模範です。このおとめは、原罪の汚れがなく、罪を免れているがゆえに完全に自由であり、完全に聖なるかたであり、神と隣人への奉仕にご自身をささげました。マリアがその母としての気遣いをもって、わたしたちがイエスに従い、真理を知り、愛に基づく自由を生きることができるよう、助けてくださいますように。

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