教皇ベネディクト十六世の101回目の一般謁見演説 聖バジリオ

7月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の101回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いまし […]

7月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の101回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の45回目として、「聖バジリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書15章9-12節が朗読されました。謁見には12,000人の信者が参加しました。

謁見の終わりに、教皇は、来年2008年7月15日から20日まで開催される第23回WYD(ワールド・ユース・デー)・シドニー大会を準備する青年への呼びかけを行いました。呼びかけは次の通りです(原文は冒頭がイタリア語、ついで英語)。

6月23日、教皇庁広報部は、7月の教皇の休暇の予定について正式に発表しました。教皇は7月9日(月)から27日(金)まで、北イタリアのヴェネト州ベッルーノ県ロレンツァーゴ・ディ・カドーレのトレヴィーゾ教区所有の山荘で休暇を過ごします。休暇期間中、7月11日、18日、25日の水曜日の一般謁見はありませんが、7月15日にカステッロ・ディ・ミラベッロで、22日にロレンツァーゴ・ディ・カドーレの広場で、正午から日曜の「お告げの祈り」が行われます。教皇は7月27日に夏季滞在先のカステル・ガンドルフォの教皇別邸に移ります。教皇の休暇中、すべての個人謁見と特別謁見は行われません。一般謁見は8月1日(水)から定期的に再開されます。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしたちは偉大な教父の一人、聖バジリオ(Basileios 330頃-379年)を考察します。聖バジリオは東方教会の典礼書で「教会の光」といわれています。聖バジリオは4世紀の偉大な司教です。東方教会も西方教会も聖バジリオをたたえます。それは彼の生活の聖性、優れた教え、そして、思弁的な能力と実践的な能力の調和のとれた総合のゆえです。聖バジリオは330年頃、聖人たちの家庭、すなわち「まことの家庭教会」に生まれました。この家族は深い信仰の雰囲気のうちに暮らしていたからです。バジリオはアテネとコンスタンチノープルの優れた教師のもとで勉学を行いました。この世の成功で心を満たされず、むなしい探究のために多くの時間を失ったと感じたバジリオは、次のように告白しています。「ある日、深い眠りから覚めると、わたしは福音の真理の驚くべき光に目を向けた。・・・・そして、自分のみじめな生活を悲しんだ」(『書簡223』:Epistula 223, PG 32, 824a参照)。わたしはキリストに心を引かれ、キリストに目を向け、キリストのことばだけに耳を傾け始めた(『道徳論』:Moralia 80, 1: PG 31, 860bc参照)。バジリオは、すでに禁欲的な修道生活を始めていた姉の聖マクリネの模範に従って、決然と修道生活に身をささげ、祈りと、聖書と教父の著作の黙想と、愛のわざの実践を行いました(『書簡2』および『書簡22』参照)。後にバジリオは司祭に叙階され、ついに370年に(現在のトルコの)カッパドキアのカイサリアの司教になりました。
  バジリオは説教と著作を通して活発に司牧・神学・文筆活動を行いました。バジリオは賢明な平衡感覚により、霊魂への奉仕を、孤独のうちに行われる祈りや黙想と結びつけることができました。バジリオは自らの個人的な体験に基づいて、神に奉献された多くの「兄弟会」あるいはキリスト信者の共同体を創立し、それらの共同体をしばしば訪れました(ナジアンズのグレゴリオ『講話集』:Oratio 43, 29 in laudem Basilii, PG 36, 536b参照)。バジリオは、ことばと著作――その多くが今日まで現存しています(『修道士小規定』:Regulae brevius tractatae, Proemium, PG 31, 1080ab参照)――によって、完徳のうちに生き、また成長するようキリスト信者たちに勧めました。バジリオの著作に基づいて、古代のさまざまな修道規則が作られました。その中には聖ベネディクトの規則も含まれます。聖ベネディクトはバジリオを自分の「師父」とみなしていました(聖ベネディクト『戒律』:Regula 73, 5参照)。実際には聖バジリオはきわめて特別な修道制を作り出しました。それは地方教会の共同体に対して閉ざされておらず、むしろ開かれたものでした。バジリオの修道士は地方教会の部分であり、地方教会を活気づける核心でした。修道士たちは他の信者に先立ってキリストに従いました。彼らは、ただ信仰だけでなく、何よりも愛のわざを通じて、キリストとの堅固な一致を、すなわちキリストへの愛を示しました。これらの修道士たちは学校や病院を建てて貧しい人に奉仕し、完全な意味でのキリスト教的な生活を示しました。神のしもべヨハネ・パウロ二世は、修道制についてこう述べています。「多くの人の考えによれば、教会生活の重要な組織である修道制は、すべての時代にわたって、主として聖バジリオによって造られました。少なくとも聖バジリオの決定的な貢献なしに修道制の性格を定義づけることはできません」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『パートレス・エクレジエ――聖バジリオ没後1600周年にあたって(1980年1月2日)』2:Patres Ecclesiae参照)。
  広大な教区の司教・司牧者として、バジリオは、信者が抱える困難な経済状況に常に心を砕きました。さまざまな悪行を強く非難しました。貧しい人、のけものにされた人びとのために働きました。特に災害時に、人びとの苦しみをやわらげるよう為政者に求めました。教会が自由でいられるように注意を払い、真の信仰を告白する権利を守るために権力者とも戦いました(ナジアンズのグレゴリオ『講話集』:Oratio 43, 48-51 in laudem Basilii, PG 36, 557c-561c参照)。バジリオは、困っている人のための病院を作ることによって、愛であり愛のわざである神をあかししました(バジリオ『書簡94』:Epistula 94, PG 32, 488bc参照)。このあわれみの町のような病院は、バジリオの名をとって「バシレイアドス」と名づけられました(ソゾメノス『教会史』:Sozomenus, Historia ecclesiastica 6, 34, PG 67, 1397a参照)。この病院は近代の病者の入院・治療のための施設の起源です。
  「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(第二バチカン公会議『典礼憲章』10:Sacrosanctum Concilium)。このことを自覚していたバジリオは、信仰のあかしである愛のわざの実践に気を配りながら、賢明な「典礼の改革者」(ナジアンズのグレゴリオ『講話集』:Oratio 43, 34 in laudem Basilii, PG 36, 541c参照)でもありました。実際、バジリオはすばらしいエウカリスチアの祈り(あるいは奉献文)をわたしたちに残しています。この祈りはバジリオにちなんで名づけられ、祈りと詩編の編集の基盤となりました。バジリオの勧めによって、詩編がよく用いられ、また知られるようになり、夜にも祈られるようになりました(バジリオ『詩編講話』:Homiliae super Psalmos, 1, 1-2, PG 29, 212a-213c参照)。こうして、典礼と礼拝と祈りは愛のわざと一致し、また、それぞれの前提となることがわかります。
  バジリオは熱意と勇気をもって異端者たちと戦いました。これらの異端者はイエス・キリストが御父と同じ意味で神であることを否定したからです(バジリオ『書簡9』:Epistula 9, 3, PG 32, 272a、『書簡52』:Epistula 52, 1-3, PG 32, 392b-396a、『エウノミオス駁論』:Adversus Eunomium 1, 20, PG 29, 556c参照)。同様に、聖霊の神性を認めない人びとに対してバジリオは、聖霊も神であり、「父と子とともに数え上げられ、ともにたたえられなければならない」(『聖霊論』:De Spiritu Sancto, SC 17bis, 348参照)と主張しました。だからバジリオは、三位一体の教理を定式化した偉大な教父の一人といえます。愛そのものであるがゆえに一なる神は、3つの位格における神です。これらの位格は、神的一性という、本質のもっとも深い一性をなしています。
  偉大なカッパドキアの教父バジリオは、キリストとその福音への愛のゆえに、教会内の分裂を修復することにも努めました(『書簡70』および『書簡243』参照)。そのためバジリオは、すべての人がキリストとそのみことばに立ち帰るように努力しました(『神の裁きについて』:De iudicio dei 4, PG 31, 660b-661a参照)。キリストのことばは、一致をもたらす力であり、信じる者は皆これに従うべきだからです(同:ibid. 1-3, PG 31, 653a-656c参照)。
  要するに、バジリオはさまざまな形での司教職の行使により、教会への忠実な奉仕に完全に身をささげました。自らが述べた計画に従い、バジリオは「キリストの使徒また奉仕者、神の神秘の分配者、神の国を告げ知らせる者、あわれみの模範と規範、教会というからだの目、キリストの羊の牧者、あわれみ深い医者、父また乳母、神の協力者、神の農夫、神の神殿の建設者」(『道徳論』:Moralia 80, 11-20, PG 31, 864b-868b参照)となったのです。
  これこそ、この聖なる司教が、昨日も今日もみことばを宣教する者に示す計画です。この計画を実践するために、バジリオ自身、惜しみなく身をささげました。バジリオは379年、辛苦と苦行で身を使い尽くし、まだ50歳にもならない年で、神のもとに帰りました――「主イエス・キリストにより、永遠のいのちへの希望を抱きながら」(『洗礼について』:De baptismo 1, 2, 9)。バジリオは、まことにキリストを見つめ続けながら生きた人であり、隣人愛の人でした。希望と信仰の喜びに満たされていたバジリオは、真の意味でキリスト信者であるとはどういうことかをわたしたちに示しています。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

PAGE TOP