教皇ベネディクト十六世の102回目の一般謁見演説 聖バジリオ(二)

8月1日(水)午前10時から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の102回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の46回目として、前回に続いてあらためて「聖バジリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書15章13-15節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  3週間の中断の後に、わたしたちは恒例の水曜日の集いを再開します。今日わたしは前回の講話をまとめるにとどめたいと思います。前回の講話のテーマは聖バジリオの生涯と著作でした。聖バジリオは4世紀の、小アジア、現在のトルコの司教です。この偉大な聖人の生涯と著作は、考察の手がかりと、現代にも意味をもつ教えに満ちています。
  まず「神の神秘への招き」です。「神の神秘への招き」は、現代人にとっても意味深く力強い基準となるものです。御父は「万物の原理であり、存在するすべてのものの原因であり、生けるものの根源です」(『講話――信仰について』:Homilia 15, 2 de fide, PG 31, 465c)。何よりも御父は「わたしたちの主イエス・キリストの父」(『聖バジリオのアナフォラ』:Anaphora sancti Basilii)です。わたしたちは被造物を通して神へと上昇しながら、「神のいつくしみと知恵を知るようになります」(バジリオ『エウノミオス駁論』:Basilius Caesariensis, Contra Eunomium 1, 14, PG 29, 544b)。御子は「御父のいつくしみの像であり、御父と同じ形のしるしです」(『聖バジリオのアナフォラ』:Anaphora sancti Basilii参照)。受肉したみことばは、その従順と受難によって、人間のあがない主としての使命を果たしました(バジリオ『詩編講話』:Basilius Caesariensis, Homiliae super Psalmos 48, 8, PG 29, 452ab; 『洗礼論』:De baptismo 1, 2, SC 357, 158も参照)。
  最後に、バジリオは聖霊について詳しく述べます。バジリオは聖霊について著作(『聖霊論』)を著しました。バジリオは、聖霊が教会を生かし、そのたまもので満たし、聖化することを示します。神の神秘の輝く光は、神の像である人間に反映し、人間の尊厳を高めます。人はキリストを仰ぎ見ることにより、人間の尊厳の理解を深めます。バジリオは叫んでいいます。「(人よ、)あなたのために払われた代価を考えながら、自分の偉大さを顧みなさい。あなたのあがないの代価を見、あなたの尊厳を知りなさい」(『詩編講話』Homiliae super Psalmos 48, 8, PG 29, 452b)。とりわけ福音に従って生きるキリスト信者は、すべての人が互いに兄弟であることを認めます。人生は神から与えられた善を管理することです。だから人はほかの人に対して責任をもちます。豊かな人は「恵み深い神の秩序の執行者」(『講話――貪欲について』:Homilia 6 de avaritia, PG 32, 1181-1196)であるかのようにならなければなりません。わたしたちは皆互いに助け合い、一つのからだの部分として協力し合わなければなりません(『書簡集』:Epistulae 203, 3)。
  この点についてバジリオは、講話の中で、勇気をもって強いことばも用いました。実際、神のおきてに従って隣人を自分のように愛そうと望む人は「隣人以外の何も所有してはなりません」(『金持ちについての講話』:Homilia in divites, PG 31, 281b)。
  飢饉や災害のとき、聖なる司教バジリオは熱烈なことばで信者に勧告しました。「野獣よりも残酷になってはなりません。・・・・人々が共有するものを奪ったり、すべての人のものを独り占めしたりしてはなりません」(『飢饉の際の講話』:Homilia dicta tempore famis, PG 31, 325a)。バジリオの深い思想は次の感動的なことばの中によく示されています。「困っている人はわたしたちの手を仰ぎます。わたしたちが、困っているときに神の手を仰ぎ見るように」。それゆえナジアンズのグレゴリオがバジリオの死後行った称賛はきわめてふさわしいものでした。「バジリオはわれわれに次のように説いた。われわれは人間なので、人に対する人間らしからぬ振舞いによって、人をさげすんではならないし、キリストを侮辱してもいけない。キリストはすべての人の共通のかしらだからである。むしろわれわれは、不幸な人を助けることによって自分の益を得、われわれの憐れみを神に返さなければならない。われわれは憐れみを必要としているからである」(ナジアンズのグレゴリオ『講話集』:Gregorius Nazianzenus, Orationes 43, 63, PG 36, 580b)。このことばはきわめて現代的な意味をもっています。聖バジリオは真の意味で教会の社会教説を述べた教父の一人だといえます。
  さらにバジリオがわたしたちに思い起こさせてくれることがあります。それは、神と人への愛を生き生きと保つために、「聖体が必要」だということです。聖体は洗礼を受けた人のためのふさわしい糧です。聖体は洗礼によって与えられる新たな力を成長させるからです(『洗礼論』:De baptismo 1, 3, SC 357, 192参照)。聖体にあずかることができることは、限りなく大きな喜びを与えます(『道徳論』:Moralia 21, 3, PG 31, 741a)。聖体は「わたしたちのために死んで復活したかたを絶えず記念させるために」(『道徳論』:Moralia 80, 22, PG 31, 869b)定められたからです。神の限りなく大きなたまものである聖体は、わたしたち一人ひとりに、いつも洗礼のしるしを思い起こさせ、洗礼の恵みを完全かつ忠実に生きることを可能にします。だから聖なる司教バジリオは、頻繁に、毎日でも、聖体を拝領することを勧めました。「毎日でも聖体を拝領し、キリストの聖なるからだと血をいただくことは、有益で良いことです。キリストははっきりとこういっておられるからです。『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得る』(ヨハネ6・54)。それゆえ、いのちにあずかり続ける者が完全に生きることを誰が疑うことができるでしょうか」(『書簡集』:Epistulae 93, PG 32, 484b)。一言でいうなら、まことのいのちを、すなわち永遠のいのちを迎え入れることが必要なら、わたしたちは聖体を必要とするのです(『道徳論』:Moralia 21, 1, PG 31, 737c参照)。
  最後にバジリオは、当然のことながら、神の民の選ばれた部分である「若者」にも関心を抱いていました。「若者」は社会の未来だからです。バジリオは若者に宛てた講話で、当時の異教文化からどのように益を得るかについて述べます。バジリオは、大きな平衡感覚と開かれた心をもって、ギリシア・ラテンの古典文学の中に美徳の模範が見いだされることを認めました。こうした正しい生活についての模範は、キリスト信者の若者が真理と正しい生き方を求める上で役立つことができます(『若人へ』:Ad adolescentes 3)。それゆえ古典文学の著作家の作品から、適切で真理にかなったものを受け入れることが必要です。こうした批判的で開かれた態度をもって――実際そこでは、真の意味での適切な「識別」が重要です――若者は自由のうちに成長します。バジリオは、花々から蜂蜜を作るのに必要なものだけを集める蜂という有名なたとえを用いながら、次のように勧めます。「花の香りや色を楽しむだけの他の動物と違って、蜂は花から蜜を取り出すことができます。それと同じように、こうした著作から・・・・人は心のために有益なものを得ることができます。わたしたちはすべてにおいて蜂の模範に従いながら、これらの書物を用いなければなりません。蜂は見境なくすべての花のところには行きません。自分がとまった花からすべての蜜を集めることもしません。蜂は蜂蜜を作るのに必要なだけのものを集め、残りはそのままにします。わたしたちに知恵があれば、これらの著作からわたしたちにふさわしく、真理にかなったことを受け入れ、それ以外のことは放っておきます」(『若人へ』:Ad adolescentes 4)。バジリオは何よりも若者が美徳において、すなわち正しい生き方において成長するよう勧めます。「他の善が・・・・さいころ遊びのように次から次へと過ぎ去るのに対して、美徳だけは譲ることのできない善であり、生涯を通して、また死後もとどまります」(『若人へ』:Ad adolescentes 5)。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。この遠い昔の教父はわたしたちにも語りかけているといえるように思われます。そして、わたしたちに重要なことを語りかけているように思われます。何よりもまず、今述べたように、現代文化に注意深く、批判的に、かつ創造的なしかたで参加するということです。それから、社会的な責任です。現代は、グローバル化した世界の中で、地理的に遠くにいる人も実際に隣人となるような時代だからです。そして、キリストとの友愛です。キリストは人間の顔をもった神だからです。そして最後に、造り主である神を知り、認めることです。神はわたしたちすべての父だからです。すべての人の共通の父であるこの神に心を開くことによって初めて、わたしたちはより公正で友愛に満ちた世界を築くことができます。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

PAGE TOP