教皇ベネディクト十六世の103回目の一般謁見演説 ナジアンズの聖グレゴリオ

8月8日(水)午前10時から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の103回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の47回目として、「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週わたしは、偉大な信仰の教師である教父、聖バジリオについてお話ししました。今日わたしは、聖バジリオの友人であるナジアンズのグレゴリオ(Gregorios Nazianzenos 325/330-390年頃)についてお話ししたいと思います。ナジアンズのグレゴリオも、バジリオと同じように、カッパドキアの生まれです。ナジアンズのグレゴリオは、優れた神学者、雄弁家であり、また4世紀のキリスト教信仰の守護者です。彼はその雄弁によって知られるとともに、詩人として繊細で感受性豊かな心をもっていました。
 グレゴリオは紀元330年頃、貴族の家庭に生まれました。母はグレゴリオを生まれたときに神にささげました。彼は家庭内で最初の教育を受けた後、当時有名だったさまざまな学校に学びました。最初に赴いたのはカッパドキアのカイサリアです。ここで彼は、将来この地の司教となるバジリオと親交を結びました。それから彼は古代世界の他の主要都市に滞在しました。たとえば、エジプトのアレキサンドリアや、何よりもアテネです。グレゴリオはアテネでバジリオと再会しました(『講話――バジリオについて』:Oratio 43, 14-24, SC 384, 146-180参照)。バジリオとの友愛を思い起こしながら、後にグレゴリオはこう述べています。「当時わたしは、その真面目な生活態度と、成熟し、知恵に満ちた弁舌のゆえに、わたしの偉大なバジリオに心からの尊敬の念を抱きました。それだけでなく、わたしはバジリオのことを知らない他の人もバジリオのように行うように誘ったのです。・・・・同じ知識への情熱がわたしたちを導きました。・・・・わたしたちが競い合ったのは、自分を優先することではなく、相手を優先することでした。わたしたちは、肉体は二つでも、一つの心をもっているかのようでした」(『講話――バジリオについて』:Oratio 43, 16; 20, SC 384, 154-156, 164)。このことばは、グレゴリオの高貴な魂の自画像も示しています。しかし、地上の価値を力強く放棄したグレゴリオが、この世の事物のために深く苦しんだことも想像できます。
  グレゴリオは故郷に戻って洗礼を受け、修道生活に入りました。独住生活と、哲学的・霊的な瞑想がグレゴリオを引きつけたのです。グレゴリオはいいます。「わたしにはこれ以上に偉大なことはないと思われました。自分の感覚を沈黙させること。この世の肉を離れること。自分自身のうちに精神を集中すること。どうしても必要なこと以外は、人間的なことにとらわれないこと。自らと、また神と語らうこと。目に見えるものを超えた生活を行うこと。心の中で神の像を常に純粋に保ち、地上的な、あるいは誤った形態と混同しないこと。真の意味で神と神的なものを汚れなく映し出す鏡となること。光から光を受け取りながら、いっそうそのような鏡となること。・・・・現在の希望のうちに将来の善を享受し、天使と語り合うこと。地上にとどまりながらも、地上をすでに離れ、霊によって天に運ばれること」(『講話――逃避について』:Oratio 2, 7, SC 247, 96)。
  自伝の中で述べているように(『詩集』:Carmina [historica] 2, 1, 11 de vita sua 340-349, PG 37, 1053参照)、グレゴリオはある意味で気が進まぬままに司祭叙階を受けました。その後司教となって、他の人やその問題に関わらなければならなくなり、純粋な瞑想に集中できなくなることを知っていたからです。にもかかわらずグレゴリオはその後、この召命を受け入れ、完全な忠実さをもって司牧的奉仕職に就きました。彼はしばしばその人生でそうなったように、摂理によって自分の行きたくないところに連れて行かれることを受け入れたのです(ヨハネ21・18参照)。371年、友人のカイサリア司教バジリオは、グレゴリオの意に反して、グレゴリオをサシマの司教に叙階することを望みました。サシマはカッパドキアの中で戦略的に重要な場所でした。しかしグレゴリオはさまざまな問題のために司教に就任することなく、ナジアンズの町にとどまりました。
  379年頃、グレゴリオは首都コンステンチノープルに招かれました。ニケア公会議と三位一体の信仰に忠実な少数のカトリック共同体を指導するためです。これに対して大多数の人々はアレイオス派を支持していました。アレイオス派は「政治的に正しく」、皇帝たちから政治的に有益だと考えられていたからです。こうしてグレゴリオは、敵対者に囲まれた少数派の立場に置かれました。グレゴリオは小さな復活(アナスタシス)聖堂で5つの『神学講話』(Orationes theologicae: Orationes 27-31, SC 250, 70-343)を行いました。それはまさに三位一体信仰を擁護し、理解可能なものとするためでした。『神学講話』は、健全な教理と論証の力によって有名になりました。この論証の力は、まことにこの三位一体信仰が神の論理であることを理解させました。『神学講話』は、その様式のすばらしさによって、今も魅力的なものとなっています。この『神学講話』のために、グレゴリオは「神学者」の称号を与えられました。グレゴリオは東方正教会の中で「神学者」と呼ばれます。なぜなら、グレゴリオにとって神学は、たんなる人間的な考察でも、複雑な思弁の結果でもなく、祈りと聖性の生活から、すなわち神との絶えざる対話から生まれるものだからです。そこから初めて神の現実が、すなわち三位一体の神秘が、わたしたちの理性に示されます。観想の沈黙の中で、啓示された驚くべき神秘への驚異の念に満たされながら、魂は神の美しさと栄光を受け入れるのです。
 グレゴリオは381年の第2回公会議に参加したとき、コンスタンチノープル司教に選出され、公会議の議長となりました。しかしすぐに強い反対に遭い、収拾不能の状況に陥りました。グレゴリオの繊細な心にとって、このような対立は耐えがたいものだったと思われます。グレゴリオがかつて悲しみに満ちたことばで嘆いたことが繰り返されました。「わたしたちはキリストを分裂させました。あれほど神とキリストを愛したわたしたちがです。わたしたちは真理であるかたのために互いに嘘をつきました。わたしたちは愛であるかたのために憎しみの心を募らせました。わたしたちは互いに分裂したのです」(『講話――平和について』:Oratio 6, 3, SC 405, 128)。このような緊張した雰囲気の中で、グレゴリオは辞任することになりました。満席の司教座聖堂の中で、グレゴリオは力と威厳に満ちた送別説教を行いました(『講話――別れの演説』:Oratio 42, SC 384, 48-114参照)。グレゴリオはその悲しみに満ちた講話の終わりに次のように述べました。「さらば、キリストに愛された偉大な町よ。・・・・子たちよ、皆様にお願いします。あなたがたにゆだねられた(信仰の)遺産を守ってください(一テモテ6・20参照)。わたしの苦しみを心にとめてください(コロサイ4・18参照)。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが皆様とともにありますように」(『講話――別れの演説』:Oratio 42, 27, SC 384, 112-114参照)。
  グレゴリオはナジアンズに帰り、約2年間、ナジアンズのキリスト教共同体の司牧に努めました。それから最後は引退して、近くのアリアンゾスで独住生活を行いました。アリアンゾスはグレゴリオが生まれた場所です。そして研究と修道生活に励みました。この最後の時期にグレゴリオは詩的作品の大部分と、何よりも『自伝』(De vita sua)を著しました。『自伝』は、グレゴリオの人間的また霊的な歩みを詩のかたちで回顧したものです。グレゴリオの歩みは、一人の苦しむキリスト信者、争いに満ちた世の中で深い内面生活を過ごした一人の人間の模範的な歩みだといえます。グレゴリオという人は、神が第一のかたであることをわたしたちに自覚させてくれます。それゆえ彼は、わたしたちにも、すなわち現代人にも語りかけます。神がなければ人間はその偉大さを失うということを。神がなければ、真の意味でのヒューマニズム(人間を中心とした思想)はありえないということを。ですから、このことばに耳を傾けようではありませんか。わたしたちも神のみ顔を知ることを求めようではありませんか。グレゴリオは一つの詩の中で、神に語りかけながらこう述べています。「主よ、いつくしみを示してください。すべてのものを超えたおかたよ」(『詩集』:Carmina [dogmatica] 1, 1, 29, PG 37, 508)。グレゴリオはその著作の中で鋭い知性をもって神を弁護し、詩の中で深い愛をもって神をたたえました。390年、神はこの忠実なしもべをみ手に受け入れました。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

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