教皇ベネディクト十六世の2007年8月12日の「お告げの祈り」のことば 地上の生と来世のいのち

教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月12日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第19主日の8月12日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、最近洪水の被害に遭った東南アジアの被災者のために次の呼びかけを行いました。
「最近の数日間に、洪水が東南アジア諸国に被害をもたらしました。多くの犠牲者が生じ、何百万人が住む家を失いました。わたしは被災者のかたがたと深く苦しみをともにすることを表明します。そして、教会共同体にお願いします。犠牲者のために祈り、多くの被災者の苦しみを軽くするための支援事業を支えてください。これらのわたしたちの苦しむ兄弟姉妹が国際社会の迅速かつ寛大な援助を欠くことがありませんように」。
パキスタン、インド、バングラデシュ、ネパール、中国では洪水の被害で2千万人の人が家を失い、数百人が死亡しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の年間第19主日の典礼は、ある意味でわたしたちを、8月15日に祝う聖母の被昇天の祭日に向けて準備します。実際、わたしたちは皆、未来へと、すなわち天へと向けられています。この天で、聖なるおとめはわたしたちに先立って楽園の喜びに入られたからです。とくに福音の個所は、先週の主日の内容に続いて、キリスト信者に対して物質的な富に執着しないことを求めます。物質的な富は大部分、幻にすぎないからです。そして、常に天を見つめながら、自分の務めを忠実に果たすことが求められます。信じる者がいつも注意して目を覚まし、栄光のうちに来られたイエスをすぐに迎え入れることができますように。主は、日常生活からとったたとえを用いて、弟子たちに、すなわちわたしたちに、このような内的態度をもって生きるように促します。たとえ話の中で、主人の帰りを待っていたしもべたちのようにです。主はいわれます。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは幸いだ」(ルカ12・37)。ですからわたしたちは目覚めて祈りながら、善を行わなければなりません。
  たしかにわたしたちは皆、地上において旅人です。ちょうど今日の第二朗読のヘブライ人への手紙が思い起こさせてくれるとおりです。ヘブライ人への手紙は、巡礼者の衣をまとったアブラハムの姿をわたしたちに示します。アブラハムは流浪の民として幕屋に住み、異国の地にとどまりました。信仰がアブラハムを導きました。ヘブライ人への手紙の著者はいいます。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11・8)。実際、アブラハムが真に目指したのは「神が設計者であり建設者である堅固な土台をもつ都」(ヘブライ11・10)でした。アブラハムが考えていた都はこの世の都ではなく、天のエルサレム、すなわち楽園です。初期キリスト教共同体はこのことをよく自覚していました。彼らは自分たちが地上では「旅人」であると考え、自分たちを「仮住まいの」都の中心となる住人と呼びます。「仮住まいの」都とは、まさに異邦人(ギリシア語「パロイコイ」)の植民地を意味します。このようにして初期キリスト信者は教会のもっとも重要な特徴を表現しました。教会の特徴とは、天を見つめる態度にほかなりません。それゆえ今日のことばの典礼は、「来世のいのち」を考えるようにわたしたちを招こうと望みます。わたしたちは信仰宣言を行うたびにこのことばを繰り返します。これは次のような招きです。人生を賢く、先のことを考えながら過ごしなさい。自分の行く末を、すなわち、わたしたちが終末(四終)と呼ぶ現実を、注意して考えなさい。終末とは、死、最後の審判、永遠、すなわち地獄と天国です。このように生きることによって、わたしたちは世に対して責任をもち、よりよい世界を築くのです。
  天からわたしたちを見守ってくださるおとめマリアの助けによって、わたしたちが地上では旅人にすぎないことを忘れることがありませんように。おとめマリアがわたしたちに、イエスと出会う準備をすることを教えてくださいますように。イエスは「全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」(使徒信条)。

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