教皇ベネディクト十六世の2007年8月19日の「お告げの祈り」のことば キリストの平和

教皇ベネディクト十六世は、年間第20主日の8月19日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第20主日の8月19日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はまずイタリア語で、ペルー地震の被災者に向けて次の呼びかけを行いました。
「ここ数日間ずっと、わたしたちは地震の被害に遭ったペルーの人々に思いと祈りを向けています。亡くなった多くのかたがたのためにわたしは主の安息を願います。怪我をされたかたがたには速やかな回復を願います。悲惨な状況に置かれたかたがたにわたしは約束します。教会は皆様とともにいて、霊的また物質的な支援を行います。国務省長官のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿は、すでにペルー訪問を計画していましたが、数日内に自らわたしの思いと聖座の具体的な支援を示します」。
8月15日(水)午後ペルー中部沿岸で発生したマグニチュード8.0の地震では、少なくとも540人が死亡し、負傷者は1500人以上に上っています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日の主日の福音のイエスのことばは、いつもわたしたちの注意を引き、適切なしかたで理解することを必要とします。十字架の死が待ち受けているエルサレムに向かう道の途中で、キリストは弟子たちにいいます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。いっておくが、むしろ分裂だ」。キリストは続けていいます。「今から後、一つの家に5人いるならば、3人は2人と、2人は3人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(ルカ12・51-53)。キリストの福音について少しでも知っている人であれば、これは優れた意味での平和についての知らせであることがわかります。聖パウロがいうように、イエスご自身が「わたしたちの平和」(エフェソ2・14)です。イエスは死んで、復活しました。それは、敵意の壁を壊して、神の国を始めるためでした。神の国は、愛と喜びと平和です。では、先のイエスのことばをどのように解釈すればよいでしょうか。イエスは、(聖ルカの記事によれば)「分裂」を、(聖マタイの記事によれば)「剣」(マタイ10・34)をもたらすために来たといいます。このことばで、主は何をいおうとしているのでしょうか。
  このキリストのことばが意味するのはこのことです。キリストがもたらすために来た平和は、たんに争いがないことと同じ意味ではありません。反対に、イエスの平和は、悪との絶え間ない戦いの結果です。イエスが戦おうと決意したのは、人間や人間の力に対してではありません。イエスが戦うのは、神と人の敵であるサタンに対してです。サタンという敵に抵抗し、神と善に忠実にとどまろうと望む人は、誤解や、場合によって、真の意味での迫害に遭わざるをえません。それゆえ、イエスに従い、妥協することなく真理のために献身しようとする人は、このことを知らなければなりません。すなわち、その人は反対を受け、自らの意に反して、人々の分裂や、自分の家族の分裂のしるしにさえなるということです。実際、父母を愛することは聖なるおきてです。けれども、真の意味で父母を愛するために、それを神とキリストへの愛よりも優先させてはなりません。こうしてキリスト信者は、主イエスの足下で、「平和の道具」となります。アシジの聖フランシスコの有名なことばがいうとおりです。この平和は、空虚なうわべだけの平和ではなく、ほんとうの平和です。わたしたちはこの平和を勇気をもって粘り強く追い求めます。そのためにわたしたちは、日々、善をもって悪に勝つよう努め(ローマ12・21参照)、この平和が求める代償を身をもってささげます。
  平和の元后であるおとめマリアは、心の殉教に至るまで、御子イエスとともに悪しき者と戦いました。そしてマリアは世の終わりまでイエスとともに戦い続けます。マリアの母としての執り成しを祈り求めようではありませんか。どうかマリアの助けによって、わたしたちが悪と妥協することなく、キリストの平和を常にあかしすることができますように。

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