教皇ベネディクト十六世の104回目の一般謁見演説 ナジアンズの聖グレゴリオ(二)

8月22日(水)午前10時から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の104回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の48回目として、前回の一般謁見に続いてあらためて「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見に先立って、「コリントの信徒への手紙一」8章5-6節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  この講話の中でわたしたちは教会の偉大な教父や博士について連続して考察しています。前回は4世紀の司教である、ナジアンズのグレゴリオについてお話ししました。今日わたしはこの偉大な教師についての考察を完結させたいと思います。今日わたしはグレゴリオのいくつかの教えをまとめてみます。ナジアンズの聖グレゴリオは、神がゆだねた使命を振り返って、次のように結論づけます。「わたしが造られたのは、わたしのわざを通して神へと上昇するためです」(『講話――貧しい人々への愛について』:Oratio 14, 6 de pauperum amore, PG 35, 865)。実際、グレゴリオは神と教会に奉仕するために、自分の著述家また弁論家としての才能を用いました。グレゴリオは多数の講話、さまざまな説教と賛辞、たくさんの書簡と詩的作品(それは約18,000行になります)を著しました。まことに驚異的な活動といわなければなりません。グレゴリオはこれが神がゆだねた使命だということを理解しました。「みことばの奉仕者であるわたしは、みことばへの奉仕職を忠実に果たします。みことばは、この善をおろそかにすることをけっしてわたしに許さないからです。わたしはこの召命に感謝し、それを喜んで受け入れます。それは他のいかなるものよりもわたしに喜びをもたらします」(『講話――平和について』:Oratio 6, 5, SC 405, 134; 『講話』:Oratio 4, 10も参照)。
  ナジアンズのグレゴリオは柔和な人でした。グレゴリオは生涯を通して常に当時の教会内で平和を築くことを求めました。教会は不和と異端によって分裂していたからです。福音に基づく大胆さをもって、グレゴリオは自分の小心さを克服して、信仰の真理を告げ知らせることに努めました。彼は神に近づき、神と一致したいという望みを深く感じました。グレゴリオはこの望みを一つの詩の中で表明しています。グレゴリオはいいます。「人生の海の大波が/激しい風で荒れ狂う。/・・・・/わたしがただ一つ愛すること、わたしのただ一つの宝、/疲れを慰め、忘れさせてくれるもの、/それは聖なる三位一体の光」(『詩集』:Carmina [historica] 2, 1, 15, PG 37, 1250ss.)。
  グレゴリオはニケア公会議で宣言された信仰を擁護することによって、三位一体の光をあらためて輝かせました。父と子と聖霊の、三つの等しくかつ区別された位格のうちにおられる唯一の神――それは「唯一の輝きに集まる三つの光」(『晩課の賛歌』:Carmina [historica] 2, 1, 32, PG 37, 512)です。そこからグレゴリオは聖パウロに従って(一コリント8・6)いいます。「わたしたちにとっては、唯一の神、父がおられ、万物はこの父から出ます。唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこのかたによって存在します。そして唯一の聖霊がおられ、万物はこのかたのうちに存在します」(『講話――聖なる光について』:Oratio 39, 12, SC 358, 172)。
  グレゴリオはキリストの完全な人間性を強調します。肉体と魂と精神のすべてにおいて人間をあがなうために、キリストは人間本性のすべての要素をとられました。もしそうしなければ、人間は救われることがなかったからです。イエス・キリストが理性的霊魂をとらなかったと主張したアポリナリオス(Apollinarios 310頃-390年頃)の異端に反対して、グレゴリオは救いの神秘の光のもとでこの問題を扱います。「とられなかったものは、いやされない」(『書簡集』:Epistulae 101, 32, SC 208, 50)。そして、もしキリストが「知性的霊魂を備えていなかったら、どのようにして彼は人間を救うことができたでしょうか」(『書簡集』:Epistulae 101, 34, SC 208, 50)。わたしたちの知性、すなわち理性は、キリストのうちに神と関わること、神と出会うことを必要としています。キリストは人間となることによって、わたしたちがキリストのようになる可能性をわたしたちに与えました。ナジアンズのグレゴリオは勧めていいます。「わたしたちはキリストのようになろうと努めます。それはキリストもわたしたちのようになられたからです。わたしたちはキリストを通じて神々のようになろうと努めます。それはキリスト自身、わたしたちのために人間になられたからです。キリストは最悪のものを担われました。わたしたちに最善のものを与えるためです」(『講話――聖なる過越について』:Oratio 1, 5, SC 247, 78)。
  キリストに人間本性を与えたマリアは、まことに神の母(テオトコス)です(『書簡集』:Epistulae 101, 16, SC 208, 42参照)。またマリアは、その最高の使命のゆえに「前もって清められていました」(『講話――降誕について』:Oratio 38, 13, SC 358, 132. これは無原罪の御宿りの教義のはるか昔の先駆のように思われます)。グレゴリオはマリアをキリスト信者、とくにおとめの模範として、また必要なときに呼び求めるべき助けとして示します(『講話』:Oratio 24, 11, SC 282, 60-64参照)。
  グレゴリオは、わたしたちが人間の人格として他者と連帯する必要があることを思い起こさせます。「『わたしたちも数は多いが、主に結ばれて一つのからだを形づくっています』(ローマ12・5参照)。金持ちも貧しい人も、奴隷も自由人も、健康な人も病気の人もです。そして、すべてのものがそこから生じる頭があります。すなわち、イエス・キリストです。一つのからだのさまざまな部分と同じように、各人は互いを世話し合い、すべての人はすべての人の世話をします」。その後、病気の人や困難のうちにある人について述べながら、グレゴリオスは最後にいいます。「他の人に対する愛のわざ――これがわたしたちの肉体と霊魂のための唯一の救いです」(『講話――貧しい人々への愛について』:Oratio 14, 8 de pauperum amore, PG 35, 868ab)。グレゴリオは、人間が神のいつくしみと愛に倣わなければならないことを強調します。そのために彼は勧めます。「あなたが健康で豊かであれば、病気で貧しい人の苦難を和らげなさい。あなたが倒れていなければ、倒れて苦しみのうちに生活している人を助けなさい。あなたが幸福なら、悲しんでいる人を慰めなさい。幸運な人は、不幸によって傷ついた人を助けなさい。神に感謝しなさい。あなたがたは人に恩恵を施すことができる者であって、恩恵を施されることを必要としている者ではないからです。・・・・富において豊かであるだけでなく、憐れみにおいても豊かな者となりなさい。金において豊かなだけでなく、徳において豊かな者となりなさい。さらにいうならば、徳においてのみ豊かな者となりなさい。すべての人よりもいつくしみ深い者であることを示すことによって、隣人の評判にまさりなさい。神の憐れみに倣うことによって、不幸な人のための神となりなさい」(『講話――貧しい人々への愛について』:Oratio 14, 26 de pauperum amore, PG 35, 892bc)。
  グレゴリオは何よりもまず、祈りの重要性と必要性をわたしたちに教えます。グレゴリオはいいます。「息をするよりも多く神のことを思うことが必要です」(『講話』:Oratio 27, 4, PG 250, 78)。なぜなら祈りは、神の渇きとわたしたちの渇きが出会うことだからです。神はわたしたちが神を渇き求めることを渇き求めます(『講話――聖なる洗礼について』:Oratio 40, 27, SC 358, 260参照)。わたしたちは祈りの中で心を神に向けなければなりません。それは、清められ、造り変えられるべきささげものとして自分を神にささげるためです。わたしたちは祈りの中ですべてのことをキリストの光のもとで見ます。自分の仮面をはずし、真理のうちに、神に耳を傾けることに集中します。そして、愛の炎を燃え立たせます。
  一つの詩の中で(この詩は同時に人生の目的についての考察であり、神への祈願の意味ももっています)、グレゴリオは述べます。「わが魂よ、汝には使命がある。/汝が望むなら、偉大な使命がある。/汝自身を、/汝の存在、行く末を深く探りなさい。/汝はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。/それは汝が生きている人生か、/それともそうでないかを知ろうと努めなさい。/わが魂よ、汝には使命がある。/それゆえ汝の人生を清めなさい。/どうか神とその神秘を考えなさい。/この宇宙が造られる前に汝が何であったか、/汝にとって宇宙が何を意味するか、/汝はどこから来て、どこへ向かっているかを調べなさい。/それゆえこれが汝の使命だ、/わが魂よ。/汝の人生を清めなさい」(『詩集』:Carmina [historica] 2, 1, 78, PG 37, 1425-1426)。聖なる司教グレゴリオスは、もう一度立ち上がり、道を歩み直し始めるための助けをキリストに求め続けます。「わがキリストよ、わたしは失意のうちにあります。/わたしはあまりにも思い上がっていたからです。/わたしは高みから地に落ちました。/けれどもわたしはもう一度立ち上がります。/わたしは自らを欺いていたことを知ったからです。/もしわたしがもう一度自分自身を頼りとするなら、/すぐにわたしは落ちて、二度と立ち上がることがないでしょう」(『詩集』:Carmina [historica] 2, 1, 67, PG 37, 1408)。
  それゆえグレゴリオは、自己嫌悪から立ち直るために、神に近づくことが必要だと考えました。彼は魂の促し、感じやすい精神の息遣い、つかの間の幸福の不安定さを体験しました。グレゴリオは人生の悲劇の中で、自分の弱さとみじめさに深く気づきました。だから彼は神の愛をいっそう強く感じたのです。聖グレゴリオはわたしたちにもいいます。魂は使命をもっています。それは、真の光を見いだし、自分の人生のまことの高みを見いだすという使命です。あなたの人生は神と出会うことです。神はわたしたちが渇き求めることを渇き求めておられるかただからです。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

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