教皇ベネディクト十六世の105回目の一般謁見演説 ニュッサの聖グレゴリオ

8月29日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の105回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」に […]

8月29日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の105回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の49回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の17回目)として、「ニュッサの聖グレゴリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見に先立って、詩編45編2-5節が朗読されました。
演説の後、最後にイタリア語で行われたイタリア人の巡礼者への祝福の終わりに、教皇は、最近のアジアやヨーロッパでの自然災害について次の呼びかけを行いました。
「最近の数日間、いくつかの地域が深刻な災害に遭いました。すなわち、東洋のいくつかの国における洪水、また、ギリシア、イタリアと他のヨーロッパ諸国での大規模な山火事です。多数の犠牲者と甚大な物質的被害をもたらしたこのような悲惨な非常事態を目の当たりにして、他の人の安全を危険にさらし、人類全体の貴重な財産である自然遺産を破壊した、一部の人の無責任な行動に憂慮を感じずにはいられません。わたしは、犯罪行為をふさわしく非難する人々と心を一つにするとともに、これらの悲惨な災害の犠牲者のために祈ってくださるようすべての人にお願いします」。
8月24日(金)以来のギリシアの山火事では64人以上が死亡しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  最近行った講話の中で、わたしは4世紀の2人の偉大な教会博士についてお話ししました。すなわち、バジリオとナジアンズのグレゴリオです。2人は現在のトルコのカッパドキアの司教です。今日わたしたちはこれに3人目を加えます。すなわち、バジリオの弟のニュッサの聖グレゴリオ(Gregorios Nyssenos 335頃-394年)です。ニュッサの聖グレゴリオは瞑想的な性格をもった人であるとともに、当時の文化に開かれた優れた考察力と、活発な知性を備えていました。こうしてニュッサの聖グレゴリオはキリスト教の歴史の中で独創的で深い思想家となりました。
  グレゴリオは335年頃生まれました。彼はキリスト教的教育をおもに兄のバジリオ――グレゴリオはバジリオを「父また教師」(『書簡集』:Epistulae 13, 4, SC 363, 198)と呼んでいます――と姉のマクリネ(Makrine 327頃-379/380年)から受けました。グレゴリオは哲学と修辞学をとくに愛好しながら学業を終えました。初めグレゴリオは教育に献身し、また結婚しました。その後グレゴリオも、兄や姉と同じく、修道生活に全生涯をささげました。後にグレゴリオはニュッサの司教に選任され、熱心な司牧者となって共同体の信望を得ました。彼に敵対する異端者から汚職のかどで訴えられ、短期間、司教職を退きましたが、後に勝利とともに復帰し(『書簡』:Epistulae 6, SC 363, 164-170参照)、真の信仰の擁護のために尽力し続けました。
  グレゴリオはとくにバジリオの死後、バジリオの霊的遺産を受け継ぐかのように、正統信仰の勝利のために協力しました。グレゴリオはさまざまな教会会議に参加しました。教会間の対立を解決しようと努め、教会組織の再構築のために積極的な役割を果たしました。そしてグレゴリオは、「正統信仰の柱」として、381年のコンスタンチノープル公会議の中心人物となりました。コンスタンチノープル公会議は聖霊の神性を定義しました。グレゴリオは皇帝テオドシウス(Theodosius 在位379-395年)からさまざまな公職に任命され、重要な説教と弔辞を行い、多数の神学的著作を著しました。394年、再びコンスタンチノープルで開催された教会会議に参加しました。没年月日は不詳です。
  グレゴリオは、自分の研究の目的、すなわち彼が神学的著作によって目指した究極的目的についてはっきりと述べます。それは、空虚なことがらに人生を費やすことなく、光を見いだすことでした。この光が真の意味で有用なことがらを識別することを可能にするからです(『コヘレトの言葉講話』:In Ecclesiasten homiliae 1, SC 416, 106-146参照)。グレゴリオはこの最高の善をキリスト教のうちに見いだしました。キリスト教によって「神の本性に倣う」(『キリスト者の務めについて』:De professione christiana, PG 46, 244C)ことが可能になるからです。グレゴリオは鋭い知性と豊かな哲学的・神学的知識をもって、異端者からキリスト教信仰を守りました。異端者は御子と聖霊の神性を否定したり(たとえばエウノミオス[Eunomios 335頃-394年頃]やマケドニオス[Makedonios 364年以前没]派)、キリストの完全な人間性を危険にさらしたからです(たとえばアポリナリオス[Apollinarios 310頃-390年頃])。グレゴリオスは人間の創造を中心として聖書を注解しました(『人間創造論』:De opificio hominis)。創造はグレゴリオスの中心的なテーマでした。グレゴリオは、被造物は創造者の反映だと考え、被造物のうちに神への道を認めました。ところでグレゴリオはモーセの生涯についても重要な著作を著しました(『モーセの生涯』:De vita moysis)。モーセは人間として神への道を示したからです。グレゴリオは、モーセのシナイ山登攀(とうはん)が、わたしたちの人生における、まことのいのちへの、すなわち神との出会いへの上昇の似像となると考えました。グレゴリオは、主の祈りや(『主の祈り講話』:De oratione dominica)、真福八端についても注解しました(『真福八端講話』:Orationes VIII de beatitudinibus)。グレゴリオは『教理大講話』(Oratio catechetica magna)で神学の基本的な要点を示しました。それは閉ざされた学問的な神学のためでなく、信仰教育に携わる人々に、教える際に心にとめるべき基準の体系を与えるためでした。この体系は、教育者がそこで信仰に関する解釈を行うための盤面のようなものです。
  さらにグレゴリオは霊的な教説においても有名です。グレゴリオの神学全体は、学問的な考察ではなく、霊的生活の表現、すなわち生きた信仰生活の表現でした。グレゴリオの「神秘家の父」としての姿は多くの著作の中に示されます。たとえば、『キリスト者の務めについて』や『キリスト者の完徳について』(De perfectione christiana)です。完徳とは、キリスト者が真のいのちに至るために歩むべき道です。グレゴリオは奉献された処女性をたたえ(『処女性について』:De virginitate)、姉マクリネの生涯を優れた模範として示しました。マクリネはグレゴリオにとって終生、導きであり模範であり続けたからです(『マクリネの生涯』:Vita Macrinae参照)。グレゴリオは多くの講話や説教を行い、多数の書簡を書きました。人間の創造についての注解の中で、グレゴリオは次のことを明らかにします。神すなわち「至高の造物主は、われわれの本性をいわば王としての働きをなすのに適した器として創造した。つまり霊魂の卓越性と肉体の形そのものとによって、王に適したものとなるように、この器を準備したのである」(『人間創造論』:De opificio hominis 4, PG 44, 136B〔秋山学訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、496頁〕)。しかしわたしたちは、人間が罪の網にかかり、被造物を濫用し、真の王として振る舞っていないのを目にします。それゆえ実際、被造物に対する真の責任を果たすために、人間は神によって見通され、神の光の中で生きなければなりません。まことに人間は、初めからある美しさ、すなわち神の映しです。聖なる司教グレゴリオは述べます。「神が創造したものはすべてきわめて美しい」。グレゴリオは続けていいます。「神が創造したものはすべてきわめて美しいと創世の物語は証言している(創世記1・31参照)。それらきわめて美しいものの一つが人間であった。というより、人間は他のものよりいっそうの美しさで飾られていた。実際、この純粋な美しさの似姿ほどに美しいものが他に何かあるだろうか。・・・・人間は永遠の生命の像にして似姿であって、真実に美しく、生命の輝くばかりの刻印で秀麗とされきわめてよかったのである」(『雅歌講話』:In Canticum canticorum homiliae 12, PG 44, 1020C〔大森正樹・宮本久雄・谷隆一郎・篠﨑榮・秋山学訳、新世社、1991年、283頁〕)。
  人間は神によって尊ばれ、他のすべての被造物を超えた位置に置かれました。「創造主は天をも、月をも、太陽をも、星の美しさをも、また他のどんな被造物をも神の像とされなかった。あなた(すなわち人間の霊魂)だけが一切の知性を超える本性の写し、朽ちることのない美の似姿、真の神性の刻印、幸いな生の保持者、そして真の光の印章となった。そのかたを見ることによってあなたは彼がそうあるところのものになる。あなたの浄さから反射する光線を通して、あなたのうちに輝いているかたをあなたは真似るのである。かくて、存在しているもののいかなるものも、あなたの大きさに匹敵できるほど大きくはない」(『雅歌講話』:In Canticum canticorum homiliae 2, PG 44, 805D〔前掲邦訳、63-64頁〕)。この人間に対する称賛のことばを深く思いめぐらしたいと思います。わたしたちは、人間が罪によってどれほど堕落したかも知っています。それゆえ、初めの偉大さを回復しようと努めようではありませんか。神がともにいてくださることによって、初めて人間はこの真の偉大さに達することができるのです。
  それゆえ人間は自らのうちに神の光の反映を認めます。人間は心を清めることによって、初めにそうであったような、本来の姿を回復します。本来の姿とは、美の原型である神を透明に映し出す像です(『教理大講話』:Oratio catechetica magna 6, SC 453, 174参照)。こうして人間は清められ、心の清い人々のように神を見ることができます(マタイ5・8参照)。「勤勉で注意深い生活態度によって、あなたの心にたまった不潔なものを洗い清めるなら、神の美しさがあなたのうちで再び輝きます。・・・・自分自身を見つめることによって、あなたは自分のうちにあなたの心の望みであるかたを見、幸いな者となるでしょう」(『真福八端講話』:Orationes VIII de beatitudinibus 6, PG 44, 1272AB)。それゆえ、わたしたちの心にたまった不潔なものを洗い清め、わたしたち自身のうちに神の光を再び見いださなければなりません。
  ですから、人間の目的は神を見ることです。人間は神のうちに初めて満たされることができます。地上の生のうちでこの目的をある意味ですでに先取りするために、人間は絶えず霊的生活の道を歩まなければなりません。霊的生活とは、神と対話しつつ生きることです。いいかえれば――そしてこれがニュッサの聖グレゴリオがわたしたちに与えるもっとも大切な教訓です――、人間の完全な完成は聖性のうちにあります。すなわち、神との出会いのうちに生きる生活のうちにあります。こうしてこのような生活が、他の人と、世を明るく照らすのです。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

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