教皇ベネディクト十六世の106回目の一般謁見演説 ニュッサの聖グレゴリオ(二)

9月5日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の106回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」につ […]

9月5日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の106回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の50回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の18回目)として、前回に続いて「ニュッサの聖グレゴリオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見に先立って、マタイによる福音書5章46-48節が朗読されました。謁見には16,000人の信者が参加しました。
演説の後、最後にイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、謁見に参加した神の愛の宣教者会の宣教者に向けて、次のように述べました。
「さらに、コルカタの福者テレサ(1910-1997年)の10回目の命日祭のために集まっておられる神の愛の宣教者会の男子・女子宣教者と協力者の皆様にごあいさつ申し上げます。親愛なる友人の皆様。まさに今日わたしたちが典礼で記念する、この真の意味でのキリストの弟子の生涯とあかしは、皆様と全教会を、貧しい人々や助けを必要とする人々のうちに常に忠実に神に仕えるように招きます。これからも福者テレサの模範に従い、あらゆるところで神の憐れみの道具となってください」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  先週の水曜日にわたしはニュッサの聖グレゴリオについてお話ししました。このグレゴリオの教えのいくつかの側面について述べたいと思います。まずニュッサのグレゴリオは人間の尊厳のきわめて重要な意味を示しました。聖なる司教はいいます。人間の目的は神に似たものになることです。そして、人間は何よりも、もろもろの美徳を愛し、知り、実践することを通じてこの目的に達します。美徳は「神の本性から降る光線です」(『真福八端講話』:Orationes VIII de beatitudinibus 6, PG 44, 1272C)。そのために、前のものに全身を向けて走る人のように、絶えず善と一致するよう進まなければなりません。このことに関連して、グレゴリオはすでにパウロのフィリピの信徒への手紙に見られる、「前のものに全身を向ける(エペクテイノメノス)」(フィリピ3・13)という、生き生きとしたたとえを用います。「エペクテイノメノス」とは、より大いなるものに向けて、つまり真理と愛に向けて「身を延ばす」ことです。このはっきりとした表現は深い事実を表します。つまり、わたしたちが目指す完徳は、一度限りで得られるものではないということです。完徳は、絶え間ない過程であり、前進しようとする継続的な努力です。なぜなら、神と完全に似たものとなることはけっしてできないからです。わたしたちは常に途上にあります(『雅歌講話』:In Canticum canticorum homiliae 12, PG 44, 1025D参照)。すべての霊魂の物語は愛の物語です。この愛は、いつも満たされると同時に、新しい次元に向けて開かれます。なぜなら神は霊魂の力を広げ続けるからです。それは、霊魂がより大きな善を受け入れることができるようにするためです。神はわたしたちのうちに善の種子を植えました。すべての聖性を目指す心は神から発します。この神ご自身が「煉瓦(れんが)を造り、・・・・わたしたちの心をみがいてきれいにし、わたしたちのうちでキリストを形造ります」(『詩編の表題』:In inscriptiones Psalmorum 2, 11, PG 44, 544B)。
  グレゴリオは次のように注意深く説明します。「神に似たものとなることは、わたしたちのわざの結果でもなければ、人間の力で成し遂げられることでもありません。それは神の寛大さがもたらします。神は初めからわたしたちの本性にご自身との類似の恵みを与えてくださったからです」(『処女性について』:De virginitate 12, 2, SC 119, 408-410)。それゆえ霊魂は「神について何ごとかを知るのではなく、自らのうちに神を有しています」(『真福八端講話』:Orationes VIII de beatitudinibus 6, PG 44, 1269C)。さらにグレゴリオははっきりと述べます。「神性とは清さです。それはさまざまな情念からの自由であり、あらゆる悪を離れることです。これらのことが皆あなたのうちにあるなら、神は本当にあなたのうちにおられます」(『真福八端講話』:Orationes VIII de beatitudinibus 6, PG 44, 1272C)。
  神がわたしたちのうちにおられ、人間が神を愛するとき――このような相互性が愛の法則です――、人間は神ご自身が望まれることを望みます(『雅歌講話』:In Canticum canticorum homiliae 9, PG 44, 956AC)。それゆえ人間は神と協働しながら自らのうちに神の像を形造ります。こうして「わたしたちの霊的な誕生自身が自由なる択びにもとづくのである。したがって、われわれは何らかのしかたで自分自身の親なのだ。すなわち、われわれは自らが意志した限りでの自己を生み出してゆくのである」(『モーセの生涯』:Vita Moysis 2, 3, SC 1bis, 108〔谷隆一郎訳、『キリスト教神秘主義著作集1 ギリシア教父の神秘主義』教文館、1992年、40頁参照〕)。人間は神へと上昇するために、清められなければなりません。「人間本性を天へと導く道は、この世の悪から遠ざかること以外にありません。・・・・神に似たものとなることは、正しい者、聖なる者、善い者となることを意味します。・・・・それゆえコヘレトの言葉によれば「神は天にいます」(コヘレト5・1)。また預言者によれば、あなたがたは「神と一致しています」(詩編73・28)。そうであれば、あなたがたは神と一致したときから、かならず神がおられるところにいなければなりません。なぜなら神は、祈るときには神を父と呼びなさいと命じたからです。神は、神にふさわしい生き方をすることによって、あなたがたの天の父と同じような者になるようにといわれたからです。別のところで主がはっきりといわれた通りです。『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』(マタイ5・48)」(『主の祈り講話』:De oratione dominica 2, PG 44, 1145AC)。
  キリストは、このような霊的上昇の過程における模範また師です。キリストはわたしたちにすばらしい神の像を示すからです(『キリスト者の完徳について』:De perfectione christiana, PG 46, 272A参照)。わたしたちは皆、キリストを仰ぎ見ることによって、自分が「自分の生涯を描く画家」であることを見いだします。この生涯において、わたしたちは意志を労働者として、美徳を色として用います(同:ibid., PG 46, 272B)。そこで人間は、キリストの名にふさわしい者とされるために、どのように振る舞えばよいでしょうか。グレゴリオは次のようにこたえます。「心の中で自分の思い、ことば、行いを、それがキリストに向かっているか、それともキリストから遠ざかっているかについて、常に吟味しなければなりません」(同:ibid., PG 46, 284C)。この点は大事です。グレゴリオは「キリスト者」ということばに重要な意味を与えているからです。キリスト者はキリストの名を担う者です。ですからキリスト者は生活においてもキリストと似た者とならなければなりません。わたしたちキリスト者は洗礼によって大きな責任を負うのです。
  グレゴリオはいいます。しかしキリストは貧しい人の中にもおられます。だから貧しい人をけっしてさげすんではなりません。「誰も重んじることのない人々を軽蔑してはなりません。この人々の尊厳を思い、見いだしなさい。彼らは救い主の存在をわたしたちに示します。それはこういうことです。主はそのいつくしみのゆえに彼らにご自身の存在を与えました。それは、彼らを通して、心が頑なで、貧しい人をないがしろにする人々を憐れみへと促すためです」(『貧しい人々を愛すべきことについて』:De pauperibus amandis, PG 46, 460BC)。すでに述べたように、グレゴリオは上昇について語ります。それは清い心で祈ることを通じて神に上昇することです。しかし、神への上昇は、隣人を愛することを通じても行われます。愛はわたしたちを神へと導く梯子(はしご)です。そこでニュッサのグレゴリオは聴衆全員に向かって厳しいことばで呼びかけます。「災害の犠牲となったこれらの兄弟に物惜しみすることのないように。あなたの胃袋を満たせるだけのものを飢えた人々に与えなさい」(同:ibid., PG 46, 457C)。
  グレゴリオは、わたしたちが皆、神により頼む者であることをはっきりと思い出させます。だから彼は叫びます。「すべてがあなたがたのものだと考えてはなりません。貧しい人々のための分もなければなりません。貧しい人々は神の友だからです。実際、このことは真実です。すべてのものは、すべての人の父である神から来ます。そして、わたしたちは兄弟であり、同じ血統に属します」(同:ibid., PG 46, 465B)。グレゴリオはまたいいます。キリスト者は自らを吟味しなければなりません。「悪行をもって兄弟に害を加えながら、断食(大斎)や肉食の節制(小斎)を行ったところで、何の役に立つでしょうか。貧しい人の手からその人のものを不正に取り上げながら、自分のものを食べなかったところで、神のみ前でそこから何を得るでしょうか」(同:ibid., PG 46, 456A)。
  3人の偉大なカッパドキアの教父についての講話の終わりに、ニュッサのグレゴリオの霊的教えにおける重要な側面について、あらためて考えてみたいと思います。すなわち、祈りです。完徳への過程において進歩し、自分のうちに神を受け入れ、自分のうちに神の愛である神の霊を担うことができるために、人は神に信頼しつつ、祈らなければなりません。「わたしたちは祈りによって神とともにいることができます。しかし、神とともにいる人は敵から遠ざかります。祈りは愛を支え守り、怒りを抑え、傲慢を静め制御します。祈りは処女性を守り、結婚への忠実を保護します。それは目覚めている者の希望、農夫のための豊かな実り、水夫の安全です」(『主の祈り講話』:De oratione dominica 1, PG 44, 1124A-B)。キリスト信者は常に主の祈りに力づけられながら祈ります。「それゆえわたしたちは、神の国が自分たちの上に降るよう祈りたいなら、みことばの力によってそれを願い求めます。腐敗から遠ざかり、死から解放され、過ちの鎖から解き放たれますように。死がもはやわたしを支配することがありませんように。悪の支配がもはやわたしたちに力を振るうことがありませんように。敵対する者がわたしを支配し、罪に縛られた者とすることがありませんように。かえって、み国がわたしの上に来ますように。こうしてわたしを支配し押さえつけていたさまざまな情念がわたしから離れ去り、できることなら消え去りますように」(同:ibid. 3, PG 44, 1156D-1157A)。
  地上での生涯を終えるとき、キリスト信者は安らかな心で神に近づくことができます。聖グレゴリオはこのことばで姉マクリネの死のことを考えています。グレゴリオはマクリネが臨終に際して次のように祈ったと述べます。「地上で罪をゆるすことのできるかた、わたしをおゆるしください。わたしが復活したかたにまみえることができるように(詩編39・14)。また、からだを脱ぎ捨てるときに、み前で汚れがない者として見いだされることができますように(コロサイ2・11参照)。こうして聖なる、汚れのない(エフェソ5・27参照)わたしの心が『み前に立ち昇る香り』(詩編141・2)のようにみ手に受け入れられますように」(『マクリネの生涯』:Vita Macrinae 24, SC 178, 224)。聖グレゴリオのこの教えは今も意味を失っていません。それは神について語るだけでなく、それ自身においてわたしたちに神をもたらします。熱心に祈り、すべての兄弟に対する愛の精神を生きることによって、この教えを実行しようではありませんか。

略号
PG=Patrologia Graeca
SC=Sources Chrétiennes

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