教皇ベネディクト十六世の107回目の一般謁見演説 オーストリア司牧訪問を振り返って

9月12日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の107回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、巡礼所マリアツェル創立850周年を記念するために9月7日(金)から9日(日)まで行ったオーストリアへの司牧訪問を振り返りました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ルカによる福音書1章46-50節が朗読されました。謁見には12,000人以上の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今日わたしは、数日前行ったオーストリアへの司牧訪問を振り返りたいと思います。オーストリアはわたしにとってとくに親しみを覚える国です。オーストリアはわたしの生まれ故郷と境を接しており、わたしはこれまで何度もその地を訪れたからです。今回の訪問の特別な目的は巡礼所マリアツェルの850周年の記念でした。マリアツェルはオーストリアでもっとも重要な巡礼所であるとともに、ハンガリーの信者からも愛されており、隣接する他の国々の巡礼者もしばしばここを訪れます。それゆえこの司牧訪問は何よりも巡礼でした。司牧訪問のテーマは「キリストを仰ぎ見る」でした。「キリストを仰ぎ見る」とは、わたしたちにイエスを示してくださるマリアと出会うことです。わたしの訪問の準備と進行のためにご尽力くださった、ウィーン大司教のシェーンボルン枢機卿とオーストリアの全司教に心から感謝します。多大なご協力を賜ったオーストリア政府とすべての公的・軍事的機関に感謝します。とくに温かくわたしを迎えてくださり、今回の訪問のさまざまな機会にご同行くださった大統領に感謝したいと思います。最初に赴いたのは「マリエンゾイレ(マリアの柱)」でした。この歴史的な柱の上には無原罪のおとめの像が立っています。わたしはそこで数千人の若者の皆様と会い、わたしの巡礼を開始しました。わたしはショア(ホロコースト)記念碑の前で祈るためにユーデンプラッツ(ユダヤ人広場)を訪れないわけにはいきませんでした。
  オーストリアの歴史と聖座との密接な関係、また国際政治においてウィーンが果たしている重要な役割を考え、わたしの司牧訪問の日程にはオーストリア共和国大統領と外交使節団との会見が入れられました。この会見は貴重な機会となりました。会見の中で、ペトロの後継者であるわたしは、諸国の指導者に対して、平和と真の意味での経済的・社会的発展を促進するよう促すことができました。わたしはとくにヨーロッパに焦点を当て、共通のキリスト教の遺産によって力づけられた価値観を基盤としながら現在の統合への歩みを進めるように、あらためて勧めました。さらにマリアツェルは、キリスト教信仰を中心としたヨーロッパの人々の出会いの象徴の一つです。ヨーロッパが信仰と理性と感情をつなぎ合わせる思想の伝統を担ってきたことを、どうして忘れることができるでしょうか。信仰と無関係な有名な哲学者でさえも、近代の良心をニヒリズムや原理主義へと陥ることから守るためにキリスト教が中心的な役割を果たすことを認めています。それゆえウィーンでの政治・外交の指導者のかたがたとの会見は、わたしの使徒的訪問をヨーロッパ大陸の現在の状況に位置づけるためにきわめて時宜を得たものとなりました。
  本来の意味での実際の巡礼は、聖マリアの誕生の祝日である9月8日の土曜日に行われました。マリアツェルの巡礼所はマリアから名づけられました。マリアツェルの起源は1157年にさかのぼります。1157年に、この地で説教をするために近郊の聖ランブレヒト修道院から派遣された一人のベネディクト修道士がマリアの不思議な助力を体験しました。修道士は木製の小さなマリア像を携えていたのです。修道士がマリア像を置いた修室(ツェル)はその後、巡礼地となり、ここに2世紀をかけて大巡礼聖堂が建設されました。巡礼聖堂では今も「恵みの聖母」、いわゆる「オーストリアの大いなる聖母(Magna Mater Austriae)」が崇敬されています。中欧と東欧の人々にこよなく愛されているこの聖地をペトロの後継者として再び訪れることができたことは、わたしにとって大きな喜びでした。雨と寒さにもかかわらず、大きな喜びと信仰をもって今回の祝典に出席することを望んだ、数万人の巡礼者たちの模範的な勇気にわたしは驚かされました。わたしはこの巡礼者たちに、「キリストを仰ぎ見る」という、わたしの訪問の中心テーマを説明しました。オーストリア司教団はこのテーマを9か月の準備期間に賢明なしかたで深めてこられました。しかし、巡礼所に来ることによって、初めてわたしたちは「キリストを仰ぎ見る」というテーマの意味を完全に理解しました。わたしたちの前に立つ聖母像は、一方の手で幼子イエスと、さらに聖堂の祭壇の上の十字架につけられたかたを示します。こうしてわたしたちの巡礼は目的に到達します。わたしたちは、聖母の腕に抱かれたこの幼子と、両腕を伸ばしたこの人のうちに神のみ顔を仰ぎ見ます。マリアの眼差しによってイエスを仰ぎ見るとは、愛である神と出会うことにほかなりません。愛である神はわたしたちのために人となり、十字架上で死んだからです。
  マリアツェルでのミサの終わりにわたしは、最近全オーストリアで更新された小教区司牧評議会の構成員に「任命書」を与えました。わたしはこの雄弁な教会のわざによって、交わりと宣教に奉仕する小教区の大きな「ネットワーク」をマリアの保護の下に置きました。この巡礼所で、わたしはオーストリアの司教団とベネディクト会共同体と喜びのうちに親交を深める時をもちました。わたしは司祭、修道者、助祭、神学生の皆様と集まり、ともに晩の祈りを行いました。わたしたちは、多くの男性と女性の謙遜な献身のゆえに、マリアと心を一つにしながら主をたたえました。これらの人々は主の憐れみに信頼し、神への奉仕のために自らをささげたからです。彼らは人間的な限界にもかかわらず、そればかりか彼らの人間性の単純さとつつましさのうちに、すべての人に神のいつくしみとすばらしさの映しを示すよう努めます。そのため彼らは清貧、貞潔、従順の道を通してイエスに従います。この三つの誓願を、キリストに従うという真の意味で理解しなければなりません。すなわち、個人主義的にではなく、関係における、教会としての意味で理解しなければなりません。
  日曜(9月9日)の午前中、わたしはウィーンの聖シュテファン司教座聖堂で荘厳な感謝の祭儀を行いました。説教の中で、わたしはとくに主日の意味と価値を強調しようと望みました。「自由な主日擁護連盟」運動を支持するためです。この運動にはキリスト信者でない人やグループも加わっています。もちろんキリスト信者であるわたしたちには、主日を生きる深い理由があります。教会がわたしたちに教えるとおりです。「主なしに、また主の日なしにわたしたちは生きることができない(Sine dominico non possumus!)」。アビティナ(現在のチュニジア)の殉教者は304年にこう叫びました。21世紀のキリスト信者であるわたしたちも、主日なしに生きることはできません。主日という日は労働と休暇に意味を与えます。創造とあがないの意味を実現します。自由と隣人への奉仕の価値を示します。・・・・これらすべてのことが主日です。主日はたんなる掟以上のものです。もし古代キリスト教文明の人々がこの主日の意味を捨て、主日をただの「週末」とか世俗的・商業的な利害のための時におとしめたとしたら、それは彼らが自分たちの文化を放棄する決断をしたことを意味しました。
  ウィーンの近くに「ハイリゲンクロイツ(聖十字架)」修道院があります。この多数のシトー会修道士で栄える共同体を訪問できたことをうれしく思います。この共同体はなんと874年間、途絶えることなく存続してきました。修道院には哲学院と神学院が付属しています。これらの学院には最近「教皇庁立」という称号が与えられました。とくに修道士のかたがたへの話の中で、わたしは聖ベルナルド(1090-1153年)の聖務日課についての偉大な教えを思い起こしながら、祈りの重要性を強調しました。祈りは、限りない美しさといつくしみのゆえに神にふさわしい賛美と礼拝をささげる奉仕だからです。ベネディクトの『戒律』(43・3)はいいます。何ごともこの聖なる奉仕に優先してはならないと(古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、176頁参照)。それは、労働の時間も休息の時間も含めて、生活全体が典礼にまとめられ、神へと方向づけられるためです。神学研究も、霊的生活また祈りの生活から切り離されてはなりません。シトー会の父であるクレルヴォーの聖ベルナルド自身が力強く述べたとおりです。神学院が修道院のそばにあることはこのような信仰と理性の一致、すなわち心と精神の一致を示します。
  わたしの旅の最後に、ボランティア組織のかたがたとの集会が行われました。教会共同体や市民の共同体の中で、進んで隣人への奉仕に努めるさまざまな年齢の多くの人々に対して、わたしは感謝を表したいと望みました。ボランティア活動はたんなる「活動」ではありません。ボランティア活動は何よりもまず生き方です。この生き方は心から始まります。すなわち、人生を感謝する態度から始まります。そして、わたしたちが与えられたたまものを隣人に「返し与え」、分かち合うよう促します。わたしはこのような観点に基づいて、あらためてボランティアの文化を励ますことを望みました。ボランティア活動を国家や公的機関の「穴埋め」としての活動と考えてはなりません。むしろそれは、底辺の人々に対する生き生きとした関心を保ち、人格的な奉仕のしかたを促進するための補助として、常に必要な存在です。それゆえ、だれもがボランティアとならなければなりません。きわめて貧しく、生活に困っている人でさえも、他の人と分かち合える多くのものをもっていることは間違いありません。彼ら自身が愛の文明を築くために役立ちうるからです。
  最後に、オーストリアへの巡礼の訪問を行えたことをあらためて主に感謝したいと思います。今回も中心となる目的地はやはりマリアの巡礼所でした。この巡礼所でわたしは力強い教会の経験を行うことができました。わたしは前の週(9月1日-2日)、ロレトでイタリアの若者の皆様ともこの経験を行いました。さらにわたしはウィーンとマリアツェルで、カトリック教会の生き生きとした、信仰深い、多様な姿を目にすることができました。予定された行事に多くのかたがたが出席されたからです。わたしが目にしたのは、喜びに満ちた、積極的な教会です。この教会は、マリアと同じようにいつも「キリストを仰ぎ見る」ように招かれています。それはすべての人にキリストを示し、与えるためです。この教会は、あらゆる段階のいのちに対して進んで「然り」ということを教え、あかしします。それは、2000年の伝統を現代において生き、平和な未来と全人類家族の真の社会的発展に奉仕する教会なのです。

PAGE TOP