教皇ベネディクト十六世の108回目の一般謁見演説 聖ヨハネ・クリゾストモ

9月19日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の108回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の51回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の19回目)として、「聖ヨハネ・クリゾストモ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書10章14-16節が朗読されました。謁見には15,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  今年は聖ヨハネ・クリゾストモ(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)の死の1600周年(407-2007年)にあたります。アンティオキアのヨハネはその雄弁のゆえにクリゾストモ(クリュソストモス)すなわち「黄金の口」と呼ばれます。ヨハネ・クリゾストモはその著作によって今も生き続けているということができます。無名の写本家が、クリゾストモの著作は「光のように全地を走る」と書いています。クリゾストモの著作は、当時の信者と同じように(当時の信者はクリゾストモの追放のために何度もクリゾストモから引き離されましたが)、わたしたちにも、著者がいなくてもその著作によって生きることを可能にしてくれます。クリゾストモ自身、追放されたときに書いたある手紙の中でそのように勧めます(『オリュンピアスへの手紙』:Epistulae 8, 45参照)。
 349年頃シリアのアンティオキア(現在のトルコ南部のアンタキヤ)に生まれたクリゾストモは、397年までの約11年間、司祭の奉仕職を果たしました。397年に彼はコンスタンチノープルの司教に任命されました。403年と407年の間の短期間に2回の追放が行われるまで、彼はこのローマ帝国の首府で司教職を務めました。今日わたしたちはアンティオキア時代のクリゾストモを考察するにとどめます。
 幼年期に父を失ったクリゾストモは母アントゥサとともに暮らしました。アントゥサはクリゾストモに最高の人間的な感受性と深いキリスト教信仰を伝えました。クリゾストモは初等・高等教育を終え、哲学と修辞学の課程を究めました。クリゾストモを教えたのは当時の有名な弁論家で異教徒のリバニオスでした。クリゾストモはリバニオスの学院で古代末期のギリシアでもっとも偉大な弁論家となりました。368年に受洗し、司教メレティオスによって教会生活のための教育を受けました。クリゾストモは371年にメレティオスによって朗読奉仕者とされました。これがクリゾストモの教会での「経歴」の公的開始を告げるものとなります。クリゾストモは367年から372年まで若者のグループとともに「アスケーテーリオン」と呼ばれるアンティオキアの一種の神学院で過ごしました。この若者たちの何人かは後に司教になりました。彼らを指導したのは有名な釈義家のタルソスのディオドロスです。ディオドロスはクリゾストモにアンティオキア学派の伝統の特徴である歴史的・字義的な釈義を教えました。
  クリゾストモは4年間、シルピオス山の近くで隠遁者とともに隠世生活を行いました。その後クリゾストモはさらに2年間、ある「長老」の指導のもとに独り洞窟の中で隠世生活を送りました。この間、クリゾストモはもっぱら「キリストの掟」、すなわち福音と、とくにパウロの書簡の黙想に努めました。クリゾストモは病気になり、自分で治療できないことがわかりました。そのためアンティオキアのキリスト教共同体に戻らなければならなくなりました(パラディオス『ヨハネ・クリゾストモの生涯についての対話』:Palladius, Dialogus de vita Ioannis Chrysostomi 5参照)。伝記作者パラディオスはいいます。主は適切なときに病気を与え、クリゾストモが真の召命に従うことができるようにした。実際、クリゾストモは自らこう述べています。教会の統治の災難と修道生活の静けさのどちらを選ぶかといわれれば、何千回でも司牧的奉仕を採るだろう(『司祭職について』:De sacerdotio 6, 7参照)。クリゾストモは司牧的奉仕が自分の召命だと感じたのです。ここにわたしたちはクリゾストモの召命の歴史における決定的な転機を見いだします。クリゾストモはすべての時間を用いて魂を司牧する者となったのです。隠修者として過ごした時期に培われた神のことばとの親しさは、クリゾストモのうちに福音を宣べ伝えることへの抑えがたい促しを深めました。彼は黙想の時期に与えられたものを他の人に与えずにはいられませんでした。こうして宣教への理想が司牧的奉仕へと魂を熱く駆り立てました。
 378年と379年の間に、クリゾストモはアンティオキアの町に戻りました。381年に助祭に、386年に司祭に叙階されたクリゾストモは、自分の故郷の町アンティオキアの諸教会の中で有名な説教者となりました。クリゾストモはアレイオス派を反駁する説教や、アンティオキアの殉教者を記念する説教、また主な祝日についての説教を行いました。彼はキリストの聖人たちに照らして、キリスト信仰についての偉大な教えを述べました。387年はクリゾストモにとって「英雄的な年」となりました。この年、いわゆる「彫像の反乱」が起こったからです。民衆は増税への反抗を示すために皇帝の彫像を倒しました。ご覧のとおり、歴史の中には変わらないことがあります。この四旬節と皇帝が罰を与えたことによる苦しみの時期に、クリゾストモは感動的な22の『アンティオキアの人々への彫像についての講話』(Ad populum Antiochenum homiliae de statuis)を行いました。この講話の目的は悔い改めと回心でした。その後は落ち着いた司牧の時期が続きました(387-397年)。
 クリゾストモはもっとも多くの著作を書いた教父の一人と考えられます。彼は17の論考、700の彼自身の講話、マタイによる福音書とパウロ書簡(ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、ヘブライ人への手紙)の注解、241通の書簡を著しました。クリゾストモは思弁的な神学者ではありませんでした。けれども彼は神学論争が行われた時代にあって、教会に関する伝統的で確実な教えを伝えました。この神学論争はアレイオス主義、すなわちキリストの神性を否定する思想によって引き起こされたものです。それゆえクリゾストモは4-5世紀の教会において成し遂げられた教義の発展の信頼の置ける証人です。クリゾストモの神学はすぐれた意味で司牧的な神学です。この司牧的な神学においては、ことばで表された思想と実際の生活との一致につねに重点が置かれます。何よりもこれが、クリゾストモが洗礼志願者に受洗を準備させるためのすばらしい教理講話(『洗礼志願者のための教理講話』:Ad illuminandos catecheses)の主題となるものです。死の直前、クリゾストモはこう述べました。人間の価値は「真実の教えと正しい生活を正確に知ること」(追放時に書かれた『教皇インノケンティウスへの手紙二』:Epistula ad Innocentium papam, 2)のうちに見いだされる。真理の認識と正しい生活というこの二つのことは一緒に行われます。認識は生活によって実践されなければなりません。クリゾストモの行ったすべての講話はつねに、知解、すなわち真の理解の実践を信者の中で深めることを目指しました。それは、信仰から道徳的また霊的に求められることを理解し、実行するためです。
 ヨハネ・クリゾストモは著作によって、肉体的・知的・宗教的な面での人間の全人的な成長を助けようと努めました。これらの成長のさまざまな側面は、大洋におけるさまざまな海にたとえられます。「これらの海の第一のものは幼年期です」(『マタイ福音書講話』:In Matthaeum homiliae 81, 5)。実際、「この最初の時期に悪徳と美徳への傾向が現れます」。だから神の掟は「?(ろう)板のような」(『ヨハネ福音書講話』:In Iohannem homiliae 3, 1)霊魂に初めから記されなければなりません。実際、幼年期はもっとも大事な時期です。この人生の最初の時期に、人生に対する正しい見方を与えるきわめて大きな方向づけが人間に対してなされることはほんとうです。このことをしっかりと自覚しなければなりません。だからクリゾストモはこう勧めます。「子どもたちに最初から霊的な武具を身に着けさせなさい。そして胸の前で手で十字架のしるしをするように教えなさい」(『コリント前書講話』:In epistulam I ad Corinthios argumentum et homiliae 12, 7)。その後、少年期と青年期が来ます。「幼年期の後に少年期が来ます。少年期には荒々しい風が吹きます。・・・・わたしたちの中で・・・・欲望が成長するからです」(『マタイ福音書講話』:In Matthaeum homiliae 81, 5)。最後に婚約と結婚の時が訪れます。「青年期の後に成熟した大人の時期が続きます。この時期には家庭のさまざまな務めが加わります。それは妻を探し求める時です」(同:ibid.)。クリゾストモは結婚の目的をこう述べます。結婚は、節制の美徳を要求しながら、人間関係の豊かな横糸で飾られる。こうして十分に準備を行った夫婦は、離婚への道を退けます。夫婦は万事を喜びのうちに行い、子どもたちを美徳へと教え導くことができます。最初の幼子が生まれると、その子は「橋のようになります。三人は一つの肉となります。子どもが両親を結びつけるからです」(『コロサイ書講話』:In epistulam ad Colossenses homiliae 12, 5)。こうして三人は「一つの家族、すなわち小さな教会」(『エフェソ書講話』:In epistulam ad Ephesios argumentum et homiliae 20, 6)となります。
 クリゾストモの説教は普通、典礼の中で行われました。典礼は共同体がみことばと聖体によって築かれる「場」です。典礼において、そこに集まった会衆は唯一の教会を表します(『ロマ書講話』:In epistulam ad Romanos homiliae 8, 7)。同じことばがあらゆるところですべての人に告げられます(『コリント前書講話』:In epistulam I ad Corinthios argumentum et homiliae 24, 2)。そして感謝の交わりは一致の生き生きとしたしるしとなります(『マタイ福音書講話』:In Matthaeum homiliae 32, 7)。クリゾストモの司牧活動は教会生活の中へと向けられました。教会の中で、洗礼を受けた信徒は祭司的・王的・預言的な職務を帯びます。クリゾストモは信徒に向けていいます。「洗礼もあなたを王、祭司、預言者とします」(『コリント後書講話』:In epistulam II ad Corinthios argumentum et homiliae 3, 5)。宣教という基本的な務めはそこから生じます。すべての人はある意味で他の人の救いのために責任を負うからです。「これがわたしたちの社会生活の原則です。・・・・自分たちのことだけを考えてはなりません」(『創世記講話』:Homiliae in Genesim 9, 2)。すべてのことは二つの極の間で行われます。つまり、大きな教会と、「小さな教会」である家庭の間の関係において行われるのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。おわかりのように、家庭と社会において信徒が真の意味でキリスト者として存在するという、このクリゾストモの教えは現代においてこれまでにまして重要な意味をもちます。主に祈ろうではありませんか。どうかわたしたちがこの信仰の偉大な教師の教えに聞き従うことができますように。

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