教皇ベネディクト十六世の2007年9月23日の「お告げの祈り」のことば 地上の富の正しい使い方

教皇ベネディクト十六世は、年間第25主日の9月23日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
教皇はこの日の午前、ラツィオ州のヴェッレトリ市を訪問し、午前9時30分から司教座聖堂前のサン・クレメンテ広場でミサをささげました。教皇は枢機卿時代、教皇ヨハネ・パウロ二世により1993年4月5日にヴェッレトリ・セーニ名義司教に任命されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の午前、わたしは、数年間名義枢機卿を務めたヴェッレトリ教区を訪問しました。この家庭的な訪問によって、わたしは霊的かつ司牧的な経験に満ちた過去のさまざまな機会を再体験することができました。盛大な感謝の祭儀の中で、わたしは今日の典礼の箇所を解説しながら、地上の富の正しい使い方について考察することができました。福音書記者ルカは最近の主日の中で、さまざまなしかたでこのテーマにわたしたちの注意を向けます。キリストは、不正ではあっても抜け目のない管理人のたとえ話を語りながら、お金と豊かな富のもっともよい使い方について弟子たちに教えます。すなわち、天の国のために、それらを貧しい人に分け与え、彼らの友となりなさいと。イエスはいいます。「不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16・9)。お金はそれ自体として「不正」なものではありません。しかしお金は他の何よりも、人を盲目的な利己主義のとりこにする可能性があります。それゆえ、ある意味で経済的な富を「転換」することが必要です。わたしたちは経済的な富を自分の利益のためだけに用いるのでなく、貧しい人が必要としていることも考えなければなりません。そのためにキリストご自身に倣わなければなりません。聖パウロが述べているように、キリストは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(二コリント8・9)。このことは逆説のように思われます。キリストはご自身の豊かさによってではなく、その貧しさによってわたしたちを豊かにしました。すなわちキリストは、その愛によってわたしたちを豊かにしました。キリストはこの愛に促されて、ご自身を完全にわたしたちにささげたからです。
 そこからわたしたちは、世界的な規模における富と貧困の問題の考察をめぐる広大で複雑な領域にも目を開かれます。この世界の中では、二つの経済的な論理が対立し合っています。すなわち利潤の論理と、富の公平な分配の論理です。両者の関係が十分に秩序づけられたものであれば、二つの論理は互いに矛盾しません。カトリックの社会教説は富の公平な分配が何よりも優先されるべきであることを常に主張してきました。当然のことながら、利潤は正当なものであり、ある意味で、経済の発展のために必要でもあります。ヨハネ・パウロ二世は回勅『新しい課題――教会と社会の百年をふりかえって』の中で次のように述べます。「現代の企業経済には、積極的側面があります。その基礎は、他の分野と同様、経済の分野においても行使される人間の自由です」(『新しい課題――教会と社会の百年をふりかえって』32)。教皇は続けて述べます。にもかかわらず、資本主義を経済制度の唯一有効なモデルと考えることはできません(同35参照)。飢餓や環境の危機がますますはっきりとした証拠をもって示すように、利潤の論理が優先されると、それは豊かな人と貧しい人の不均衡を増大させ、地球の破壊的な開発を進行させます。これに対して、分かち合いと連帯の論理を優先させれば、進むべき道を修正し、公正で持続可能な発展に向けて方向づけることが可能です。
 至聖なるマリアはマリアの賛歌の中で叫びます。主は「飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1・53)。至聖なるマリアの助けによって、キリスト信者が地上の富を、福音に基づく知恵によって、すなわち寛大な連帯をもって用いることができますように。そして、すべての政治家と経営者が、すべての民族の真の意味での発展に役立つ、長期的視野のある戦略をもつことができますように。

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