教皇ベネディクト十六世の109回目の一般謁見演説 聖ヨハネ・クリゾストモ(二)

9月26日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の109回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の52回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の20回目)として、前回に続いて再び「聖ヨハネ・クリゾストモ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、フィリピの信徒ヘの手紙3章20-21節が朗読されました。謁見には20,000人以上の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  聖ヨハネ・クリゾストモについての考察を続けます。アンティオキアで過ごした時期の後、クリゾストモは397年にコンスタンチノープルの司教に任命されました。コンスタンチノープルは東ローマ帝国の首府です。クリゾストモは最初から教会の改革を計画しました。司教公邸の簡素さはすべての人の模範とならなければなりません。それは聖職者、やもめ、修道士、宮廷の人々、豊かな人を含めてです。残念ながらクリゾストモの批判を受けた少なからぬ人々が彼から距離を置くようになりました。貧しい人々を気遣ったクリゾストモは「施しの人」とも呼ばれました。実際、クリゾストモは注意深い管理をもって慈善施設を造ることができました。この施設は高い評価を受けました。クリゾストモはさまざまな分野で活動したため、ある人は彼を危険な競争者とみなしました。にもかかわらずクリゾストモは真の牧者として、心から父の愛をもってすべての人に接しました。とくにクリゾストモは常に女性を優しく気遣い、結婚と家庭に特別な配慮を示しました。クリゾストモは信者を典礼にあずかるよう招きました。クリゾストモはその創造的な才能によって典礼を荘厳かつ魅力的なものとしました。
  クリゾストモは優しい心をもっていましたが、その生涯は平穏なものではありませんでした。ローマ帝国の首府の司牧者であったクリゾストモは、しばしば政治的な問題や策謀に巻き込まれました。彼は政治家や公的機関と関係をもち続けたからです。さらに教会の分野において、クリゾストモは401年アジア州で、ふさわしくないしかたで選ばれた6人の司教を罷免したため、裁治権の範囲を逸脱したと告発され、たちまち非難の的となりました。人々がクリゾストモに反対したもう一つの理由は、アレキサンドリアの総大司教テオフィロスに破門され、コンスタンチノープルに逃れてきたエジプトの修道士たちの存在でした。その後、クリゾストモが帝妃エウドクシアとその廷臣を批判したことから激しい反目が生じました。エウドクシアたちはクリゾストモに汚名を着せ、侮辱することをもって彼にこたえました。こうしてクリゾストモはテオフィロス総大司教が403年に開催した教会会議で罷免されました。そして、最初の短い追放の刑を受けました。追放から帰還した後、クリゾストモは、帝妃をたたえる式典に抗議したがゆえに敵意を買いました(司教クリゾストモはこの式典がぜいたくで異教的な祭典だと考えたからです)。そして404年の復活徹夜祭に、洗礼を授けていた司祭たちが追放されました。こうしてクリゾストモと「ヨハネ派」と呼ばれたその支持者への迫害が始まりました。
  クリゾストモはローマ司教インノケンティウス一世に事態を報告しました。しかし時はすでに遅すぎました。406年クリゾストモは再び追放されなければならなくなります。今回の追放先はアルメニアのククススでした。教皇はクリゾストモの無実を確信しましたが、彼を助けるだけの力をもっていませんでした。帝国の2つの部分、またそのそれぞれの教会を和解させるためにローマが呼びかけた公会議は開催できませんでした。クリゾストモはククススからピテュウス(彼はこの地に到達することがありませんでした)に移動させられて疲れきりました。この移動は信者の訪問を妨げ、追放されたクリゾストモを疲れさせて抵抗できなくするためのものでした。追放の刑は実際には死刑だったのです。追放先から書かれた多くの手紙は感動的です。これらの手紙の中でクリゾストモは、司牧的な配慮と、自分の支持者が迫害されたことへの同情と悲しみを示しています。クリゾストモの死に至る行進はポントスのコマナで終わりました。このコマナで、瀕死のクリゾストモは殉教者聖バシリスコスの礼拝堂に運ばれました。クリゾストモはこの礼拝堂で神に霊を渡し、殉教者のそばに殉教者として葬られました(パラディオス『ヨハネ・クリゾストモの生涯についての対話』:Palladius, Dialogus de vita Ioannis Chrysostomi 119)。それは407年9月14日の、聖なる十字架称賛の祝日でした。クリゾストモの復権は438年、テオドシウス二世(在位402〔408〕-450年)のときに行われました。コンスタンチノープルの使徒教会に安置された聖なる司教クリゾストモの聖遺物は1204年にローマの初期のコンスタンティヌス聖堂に移転され、現在はサンピエトロ大聖堂の聖歌隊の礼拝堂に置かれています。2004年8月24日、この聖遺物の大部分が教皇ヨハネ・パウロ二世によりコンスタンチノープル総主教バルトロマイ一世に贈られました。聖ヨハネ・クリゾストモの記念日は9月13日に祝われます。福者ヨハネ二十三世はクリゾストモを第二バチカン公会議の守護者と宣言しました。
  ヨハネ・クリゾストモについて次のようにいわれています。クリゾストモが新しいローマすなわちコンスタンチノープルの座に座ったとき、神はクリゾストモのうちに全世界の博士である第二のパウロを示したと。実際、クリゾストモにおいては、アンティオキアにおいてもコンスタンチノープルにおいても、思弁と実践が根本的に統一されていました。変わったのは任務と状況だけでした。クリゾストモは、創世記の注解の中で6日間の間に神が行った8つのわざを考察しながら、信者を被造物から造り主へと導こうと望みます。クリゾストモはいいます。「被造物と造り主を知ることはきわめてよいことです」。クリゾストモはわたしたちに、被造物のすばらしさと、被造物において神が目に見えるようになることを示します。そこで被造物は神へと上昇し、神を知るためのいわば「梯子(はしご)」となります。しかしクリゾストモは、この最初の段階に第二の段階を付け加えます。この造り主である神は「わたしたちとともに降る(シュンカタバシス)」神でもあります。わたしたちには「上昇する」力がありません。わたしたちの目はよく見えません。それで神はわたしたちとともに降る神となります。このわたしたちとともに降る神は、堕落し、旅人となった人間に手紙を送ります。すなわち聖書です。こうして創造と聖書は相補い合います。聖書という、神がわたしたちに与えてくださった手紙の光に照らして、わたしたちは被造物の意味を読み取ることができます。神は「優しい父(フィロストルギオス)」、霊魂の医師、母(『創世記講話』:Homiliae in Genesim 40, 3)、また愛情に満ちた友(『出来事と摂理について』:De facto et providentia 8, 11-12)と呼ばれます。第一の段階は、神への「梯子」としての被造物です。第二の段階は、わたしたちとともに降る神がわたしたちに与えた手紙、すなわち聖書です。しかしクリゾストモは、この第二の段階に第三の段階を加えます。神はわたしたちに手紙をくれるだけではありません。最終的に神ご自身が降られます。神ご自身が受肉し、実際に「わたしたちとともにおられる神」となります。神ご自身が十字架上の死に至るまでわたしたちの兄弟となられるのです。被造物のうちに目に見えるようになられる神、わたしたちに手紙をくださる神、降って来て、わたしたちの一人となられる神――そしてクリゾストモは、この三つの段階の上に、最後に第四の段階を加えます。キリスト信者の生活と行動全体の中で、いのちと活動の原理となるのは聖霊(プネウマ)です。聖霊は世の現実を造り変えるからです。神は聖霊を通じてわたしたちの生活の中に入って来て、わたしたちを心の内側から造り変えます。
  このことを背景としながら、クリゾストモはまさにコンスタンチノープルにおいて、使徒言行録の連続講話の中で、初代教会の模範(使徒言行録4・32-37)を社会の模範として示します。それは「ユートピア」社会(いわば「理想国家」)を実現するものだからです。実際、クリゾストモは国家にキリスト教的な魂と顔を与えようとしました。いいかえれば、クリゾストモは、施しをしたり、その都度、貧しい人を助けるだけでは不十分で、新たな制度、新たな社会構造を造ることが必要だと考えました。この新たな構造は新約聖書の考え方に基づくものでなければなりません。初代教会に出現したのはこの新たな社会にほかならないのです。それゆえクリゾストモは、真の意味で教会の社会教説に関する偉大な教父の一人となりました。かつてのギリシアの「ポリス(国家)」の理念は、キリスト教信仰から霊感を受けた新たな国家理念に代わります。クリゾストモはパウロとともに(一コリント8・11参照)、奴隷も貧しい人も含めた一人ひとりのキリスト信者が、そのありのままの人格において第一に優先されるべきことを主張します。こうしてクリゾストモの計画はギリシアの伝統的な「ポリス(国家)」観を修正します。ギリシアの「ポリス」においては人口の大多数が市民権をもつことを否定されていました。しかしキリスト教的国家では、すべての人が平等な権利を有する兄弟姉妹です。人格を優先することは、国家が現実に人格を基盤として築かれることからもたらされます。しかしギリシアの「ポリス」では、祖国が個人よりも重要であり、個人は全体としての国家に従属していました。こうしてクリゾストモから、キリスト教的な良心によって築かれた社会という思想が始まります。そしてクリゾストモはわたしたちにいいます。わたしたちの「ポリス」は別のところにあります。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3・20)。そしてこのわたしたちの本国は、地上においても、わたしたち皆を平等な兄弟姉妹とし、互いに連帯するよう求めます。
  生涯の終わりに、アルメニア国境の追放の地の「世界のもっとも人里離れたところから」、クリゾストモは386年の最初の説教に戻り、人類に対して神が行おうとする計画という、彼が好んだテーマをもう一度取り上げます。この計画は「言表することも把握することもできない」計画です。しかし、神が愛をもってこの計画を導いてくださることは確かです(『出来事と摂理について』:De facto et providentia 2, 6参照)。わたしたちはこのことを確信しています。たとえ個人と共同体の歴史の意味を細部まで解読できなくても、わたしたちは神の計画が常に神の愛に導かれていることを知っています。だからクリゾストモは苦しみの最中にあっても、自分が見いだしたことをあらためて確認したのです。神はわたしたちすべてを限りない愛をもって愛してくださいます。それゆえ神はすべての人の救いを望まれます。聖なる司教クリゾストモは、惜しみなく、自らを顧みることなしに、全生涯を通してこの救いに協力しました。実際クリゾストモは自分の人生の究極的な目標は神の栄光だと考えました。臨終に際して、彼はこの神の栄光を遺言として残しました。「あらゆることにおいて神に栄光が帰されますように」(パラディオス『ヨハネ・クリゾストモの生涯についての対話』:Palladius, Dialogus de vita Ioannis Chrysostomi 11)。

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