教皇ベネディクト十六世の2007年9月30日の「お告げの祈り」のことば ラザロと金持ち

教皇ベネディクト十六世は、年間第26主日の9月30日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻 […]

教皇ベネディクト十六世は、年間第26主日の9月30日(日)正午に、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸の窓から、中庭に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇はまずイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「わたしは大きな不安をもって最近ミャンマーで起こっている事態を見守っています。そして、今悲しむべき試練を経験している愛するミャンマーの人々に心を寄せていることを表明したいと思います。わたしは彼らと連帯し、深い祈りをささげることを約束します。また、わたしと同じことをしてくださるよう全教会にお願いします。わたしはミャンマーの善のために平和的な解決が見いだされることを強く希望します」。
「わたしは朝鮮半島情勢のためにも祈ってくださるようお願いします。朝鮮半島では北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)の間の対話の重要な進展が希望のしるしとなっています。このしるしは、行動における和解の努力が強められ、韓国・朝鮮の人々に恩恵をもたらし、地域全体の安定と平和に貢献することを示します」。
ミャンマーでは仏教僧を中心とした反政府デモが続く中、9月27日(木)、デモを取材中の日本人ジャーナリスト、長井健司さん(50歳)が治安部隊の銃撃を受けて死亡しました。国連の事務総長特使のガンバリ特別顧問が9月29日(土)ミャンマーに派遣され、30日(日)には民主化運動指導者アウン・サン・スーチーさんと面会しました。
9月27日(木)からは北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議が北京で始まっています。10月2日(火)から4日(木)まで北朝鮮の首都・平壌で、韓国のノ・ムヒョン(盧武鉉)大統領と北朝鮮の金正日・労働党総書記が7年ぶりの南北首脳会談を行います。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日、ルカによる福音書は金持ちと貧しいラザロのたとえ話を示します(ルカ16・19-31)。金持ちは、不正な富の用い方を代表します。彼は自分を満足させることのみ考え、門前の物乞いのことを気にかけることなく、勝手で利己主義的なぜいたくのために富を用いるからです。その反対に、貧しい人は神だけが心にかける人を表します。金持ちと異なり、この貧しい人にはラザロという名前があります。ラザロはエレアザロの短縮形で、「神が彼を助ける」という意味です。すべての人がこの人を忘れても、神はこの人を忘れません。この人は、人間の目から見ると何の価値もありませんが、主の目からは尊いのです。物語はどのようにして地上の不正が神の正しさによって覆されるかを示します。ラザロは死後、「アブラハムのすぐそばに」受け入れられます。「アブラハムのすぐそば」とは、永遠の至福のことです。しかし金持ちは「陰府(よみ)でさいなまれ」ます。ここでいわれているのは、確定した、最終的な、新しい状態のことです。この状態のために、わたしたちは地上の生涯の間に悔い改めなければなりません。死んだ後で悔い改めても何の役にも立たないのです。
 たとえ話は社会的な意味で解釈することもできます。40年前に教皇パウロ六世が書いた回勅『ポプロールム・プログレッシオ――諸民族の進歩推進について――』は今も忘れることのできない価値をもっています。パウロ六世は飢餓に対する戦いについて次のように述べます。「すべての人が・・・・十分に人間らしい生活を送れるような世界、・・・・貧しいラザロも富める者とともに食卓につくことができる世界を建設することが、目標とされなければなりません」(同47)。回勅はいいます。多くの悲惨な状況の原因は「人間によって」また「十分に制御できない自然によって負わされている隷属状態」(同)です。残念ながら一部の人々がこの2つの原因によって苦しんでいます。このときにあたって、特にこの数日間、大規模な洪水の被害に遭ったサハラ南部のアフリカ地域のことを思わずにいられるでしょうか。しかしわたしたちは地上のさまざまな地域が人道的な危機的状況に置かれていることを忘れることはできません。そこでは政治的・経済的な権力のための紛争が、すでに人々を苦しめている環境問題を悪化させています。パウロ六世の当時の呼びかけは今も同じ緊急的な意味をもち続けています。「飢えた民は、今富める民に苦しいうめきをあげて呼びかけています」(『ポプロールム・プログレッシオ――諸民族の進歩推進について――』3)。わたしたちは歩むべき道を知らないということはできません。わたしたちには律法と預言者があります。イエスは福音の中でわたしたちに語りかけています。もし耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返って言い聞かせる者があっても、悔い改めることはないでしょう。
 おとめマリアの助けによって、わたしたちが今の時を用いてこの神のことばに耳を傾け、それを実行することができますように。マリアの執り成しによって、わたしたちが困っている兄弟に注意を向け、豊かなものであれ、ささやかなものであれ、わたしたちがもっているものを彼らと分かち合うことができますように。そして、自分自身から始めて、真の連帯の思想と行動様式を広めることができますように。

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