教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見演説 アレキサンドリアの聖チリロ

10月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神 […]

10月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の53回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の21回目)として、「アレキサンドリアの聖チリロ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書1章1-5節が朗読されました。謁見には約40,000人の信者が参加しました。
教皇は7月27日からのカステル・ガンドルフォ教皇公邸での夏季滞在を終え、この日の午前にバチカンに戻りました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日も教会の教父の足跡をたどる旅路を続けます。わたしたちが今日考察するのはアレキサンドリアの聖チリロ(Kyrillos 370/380-444年)という偉大な人物です。チリロは431年のエフェソ公会議の開催を導いたキリスト論論争と関係しています。また彼はアレキサンドリア学派の伝統を代表する最後の人です。そこでチリロは後に東方教会の中で「正確さの守護者」――すなわち、真の信仰の守護者の意味――、さらに「教父の封印者」と呼ばれました。この古代の呼び名は実際にチリロの特徴をよく示しています。すなわち、このアレキサンドリアの司教チリロは、自分の神学と伝統との連続性を示すために、常に彼に先立つ教会のさまざまな権威ある人々(中でもアタナシオ[Athanasios 295頃-373年])を引用したということです。チリロは自分の神学を教会の伝統の中にはっきりと位置づけることを望みました。チリロは教会の伝統のうちに使徒とキリスト自身との連続性の保証を見いだしたからです。東方教会でも西方教会でも聖人として崇敬された聖チリロは1882年、教皇レオ十三世(在位1878-1903年)により教会博士と宣言されました。レオ十三世は同時に同じ称号をもう一人のギリシア教父の重要な代表者であるエルサレムの聖チリロ(Kyrillos 315頃-386/387年)にも与えました。このことは教皇の東方教会のキリスト教的伝統に対する関心と愛を示しています。レオ十三世は続いてダマスコの聖ヨハネ(Ioannes 650頃-750年頃)を教会博士と宣言しました。こうして教皇は東方教会と西方教会の伝統がどれほどキリストの唯一の教会の教えを表現しているかを示したのです。
 アレキサンドリアの重要な司教座に選出される以前のチリロの生涯についてはあまり知られていません。テオフィロス(Theophilos 345頃-412年)――テオフィロスは385年から司教として断固たる手腕と名声をもってアレキサンドリア教区を支えました――の甥であったチリロは370年から380年の間にこのエジプトの首都アレキサンドリアに生まれたと思われます。チリロはすぐに教会生活を始め、文化的にも神学的にも優れた教育を受けました。403年チリロは強力な叔父に従ってコンスタンチノープルに行き、このコンスタンチノープルでいわゆる「樫の木」の教会会議に参加しました。「樫の木」の教会会議はコンスタンチノープルの――後に「クリゾストモ」と呼ばれた――司教ヨハネ(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)を罷免しました。このことは、皇帝が住み、伝統的な競争相手だったコンスタンチノープルの司教座に対する、アレキサンドリアの司教座の勝利を示すものでした。叔父のテオフィロスが死ぬと、チリロはまだ若かったにもかかわらず412年に影響力のあるアレキサンドリアの教会の司教に選ばれました。チリロはアレキサンドリアの教会を精力的に32年間統治しました。チリロはアレキサンドリアがローマとの伝統的なきずなに強められながらも、全東方教会の首座教会であることを主張しようと努めました。
 2・3年後の417年ないし418年、アレキサンドリア司教チリロは断絶していたコンスタンチノープルとの交わりを回復して、自らが現実主義者であることを示しました。コンスタンチノープルとの交わりの断絶は、クリゾストモの罷免の結果、406年から続いていたからです。しかしコンスタンチノープルの司教座との古来の対立は約10年後に再燃します。428年にネストリオス(Nestorios 381頃-451年以降)が司教に選ばれたためです。ネストリオスはアンティオキアで教育を受けた、影響力のある厳格な修道士でした。実際、この新しいコンスタンチノープルの司教はすぐに対立を招きました。ネストリオスは説教の中で、すでに民間信心の中でたいへん好まれていた「神の母(テオトコス)」という称号の代わりに「キリストの母(クリストトコス)」という称号を用いることを選んだからです。司教ネストリオスが「キリストの母(クリストトコス)」を選んだのは、彼がアンティオキア学派のキリスト論を支持したためです。アンティオキア学派のキリスト論は、キリストの人間性の重要性を守るために、キリストの人間性のキリストの神性からの分離を主張しました。こうしてもはやキリストのうちに神と人間の真の意味での一致は存在せず、当然のことながら、「神の母」ということもできなくなりました。
 チリロは、キリストの位格の一致を強く主張することを目指す、当時のアレキサンドリア学派のキリスト論の最大の代表者でした。そこでチリロはすぐに、429年からあらゆる手段を用いて反論し、ネストリオス自身に対する書簡も書きました。430年2月にチリロがネストリオスに宛てて書いた第二の手紙(PG 77, 44-49)には、神の民の信仰を守るために司牧者がなすべき務めに関するはっきりとした主張が述べられています。チリロの基準はこれです。それは現代でも有効です。神の民の信仰は伝統の表現であり、健全な教えの保証です。チリロはネストリオスに対して述べます。「教えのことばと、信仰の意図するところを慎重な配慮をもって信徒に対して説明しなければならないこと、またキリストを信じる者たちのなかでも小さな者たちの一人でもつまずかせることは耐えがたい(神の)不興をこうむることになることを思い起こしていただきたいと思います」(『第四書簡(ネストリオスへの第二の手紙)』小高毅訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』平凡社、1994年、104頁)。
 同じネストリオスへの手紙の中で――この手紙は後に451年に第4回公会議であるカルケドン公会議によって承認されました――チリロは自分のキリスト論的信仰をはっきりと述べます。「真の合一となるような結合された(神と人間の)本性はそれぞれ異なるものではありますが、双方から成るひとりのキリスト、ひとりの子がおられるのです。(二つの)本性の相違は合一によって取り除かれたのではなく、合一のための名状しがたく言語に絶する結束によって、わたしどものために、神性と人間性とが唯一の主、キリスト、子となったのです」(前掲小高毅訳、104-105頁)。そしてこのことが重要です。すなわち、真の人間性と真の神性は、わたしたちの主イエス・キリストという唯一の位格のうちに現実に一致しているということです。だからアレキサンドリアの司教チリロは続けていいます。「わたしどもは唯一のキリスト、(唯一の)主を表明するのです。わたしどもは言(ロゴス)とともに一人の人間を礼拝しているとはいいません。『ともに』ということで、区分を設けているような印象を与えないためです。わたしどもは唯一の同じ(主)を礼拝しているのです。このかたの肉体は言(ロゴス)にとって<よそもの>ではなく、それとともに(言〔ロゴス〕)は父の許に座しておられるのです。しかしながら、ふたりの子が(父の許に)座しているというのではありません。固有の肉との合一に即してひとりのかたなのです」(前掲小高毅訳、106頁)。
 やがてアレキサンドリアの司教チリロは、慎重な同盟者のおかげで、ネストリオスを繰り返し断罪させることができました。ローマの司教座はチリロ自身が書いた12条の異端宣告文によってネストリオスを断罪しました。そしてついに431年にエフェソで開催された第3回公会議がネストリオスを断罪しました。転変する騒然としたさまざまな事件の中で開催されたエフェソ公会議は、マリア信心の最初の大きな勝利をもって、またコンスタンチノープル司教ネストリオスの追放をもって閉会しました。ネストリオスは、キリストご自身のうちに分離をもたらす誤ったキリスト論のゆえに「神の母」の称号を認めようとしなかったからです。しかしチリロは、論敵とその教えに対して勝利した後、433年にアンティオキア教会の人々と神学的問題に関して合意と和解を得ることができました。信仰に関する教えについて明快であると同時に、一致と和解を熱心に求めることも重要です。その後の時期も、チリロは444年1月27日に没するまで、自分の神学的見解を弁護し、明快にするためにあらゆるしかたで努めました。
 チリロの著作――それはきわめて多数あり、すでにその存命中から西方ラテン教会と東方教会のさまざまな伝統の中で流布していました。それはチリロの著作がただちに成功を収めたことをあかししています――はキリスト教史にとってきわめて重要な意味をもちます。モーセ五書のすべて、イザヤ書、詩編、ヨハネによる福音書とルカによる福音書を含む、旧約と新約の多くの書についての注解も重要です。多くの教理的著作も重要です。チリロはこれらの教理的著作の中でアレイオス派やネストリオス派の主張に対して三位一体信仰を繰り返し擁護しました。チリロの教えの基盤は教会の伝統、特に、すでに述べたように、アレキサンドリアの司教座におけるチリロの偉大な先任者であるアタナシオの著作です。さらにチリロのそれ以外の著作の中でわたしたちは『ユリアヌス駁論』(Contra Julianum imperatorem)を思い起こします。この著作は、キリスト教への反論に対する最後の偉大な応答です。アレキサンドリアの司教チリロはこれをおそらく生涯の最後の頃、『ガリラヤ人駁論』(Contra Galilaeos)にこたえるために書きました。『ガリラヤ人駁論』ははるか以前の363年に、自分がキリスト教の教育を受けたにもかかわらずキリスト教を捨てたために「背教者」と呼ばれた皇帝(ユリアヌス[Flavius Claudius Julianus ローマ皇帝在位361-363年])によって書かれたものです。
 キリスト教信仰は何よりもまずイエスとの出会いです。「この出会いが、人生に新しい展望を与えるからです」(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』1)。アレキサンドリアの聖チリロは、受肉した神の子であるイエス・キリストをうむことなくしっかりとあかししました。そのために彼は何よりもイエス・キリストがひとりであることを強調しました。433年に司教スケンソス(Soukensos 440年以前没)に宛てた最初の手紙でチリロが繰り返し述べるとおりです。「受肉の前にも、受肉の後にも、ひとりの子、ひとりの主イエス・キリストがおられるのです。実に、父なる神から(生まれた)言(ロゴス)である子と、聖なる処女から(生まれた)かたとは別々のかたではないのです。むしろ、世に先立って存在されたかたご自身が肉に即して女からも生まれたと、わたしどもは信じているのです」(『第45書簡(スケンソスへの手紙)』小高毅訳、前掲『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』130頁)。この主張は、その教理的意味を超えて、父から生まれた「ロゴス」であるイエスへの信仰は歴史に根ざすものであることも示します。なぜなら、聖チリロがいうように、同じイエスは、「テオトコス(神の母)」であるマリアから生まれることによって時間の中に到来し、約束されたとおり、いつもわたしたちとともにおられるからです。このことは大事です。神は永遠であると同時に、女から生まれ、日々わたしたちとともにとどまってくださいます。わたしたちはこのことへの信頼のうちに生きます。わたしたちはこのことへの信頼のうちに自分の人生の道を見いだすのです。

略号
PG=Patrologia Graeca

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