教皇ベネディクト十六世の114回目の一般謁見演説 トリノの聖マクシムス

10月31日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の114回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の57回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の25回目)として、「トリノの聖マクシムス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、コロサイの信徒への手紙3章1-4節が朗読されました。謁見には雨の中、30,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 4世紀末から5世紀初めにかけて、聖アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)の後、北イタリアでキリスト教を広め、堅固なものとする上で、もう一人の教父が決定的な貢献を果たしました。それが聖マクシムス(Maximus Taurinensis 408/423年没)です。マクシムスはアンブロジオの死の1年後の398年にはトリノの司教となっていました。マクシムスについてはごくわずかのことしか知られていません。けれども約90の説教から成る『説教集』(Sermones)が残されています。この『説教集』から司教マクシムスとトリノの生き生きとした深いきずなが浮かび上がります。このきずなは、アンブロジオの司教職とマクシムスの司教職のはっきりとした一致点を示します。
 当時、深刻なしかたで緊迫した事態が市民の日常生活を動揺させていました。このような状況の中で、マクシムスは、司牧者また教師として自分のまわりにキリスト信者の民を団結させることができました。トリノの町は蛮族のさまざまな集団によって脅かされていました。蛮族は東の峠から侵入して西アルプスにまで達しようとしていました。そのためトリノには常に守備隊が駐屯しており、また非常の際に、トリノは地方や防備のない都市から逃れてきた人々の避難所となりました。こうした状況に際してマクシムスが行った説教は、彼が市民生活の破壊と崩壊に抵抗しようと努めたことを示します。マクシムスが説教を行った人々の社会的身分を特定するのは困難ですが、マクシムスの説教は、漠然とした内容になることを避けるために、特にトリノのキリスト教共同体の中核となる選ばれた人々に向けて行われたように思われます。この人々は、トリノ郊外に土地を所有しながらトリノの町に住む、富裕な地主から構成されていました。これはマクシムスの司教としての明確な司牧的選択でした。マクシムスは、このような種類の説教が、自分と民のきずなを維持し強めるためにもっとも効果的な手段であると考えたからです。
 こうした観点からマクシムスのトリノでの奉仕職の姿を示すために、わたしは例として『説教17』と『説教18』を引用したいと思います。この2つの説教は、キリスト教共同体における富と貧しさという、いつの時代にも通用するテーマを扱います。このテーマをめぐってトリノでは深刻な対立が生じていました。富は蓄積され、また隠匿されていたからです。「ほかの人が困っていることを考えない人がいます」。司教マクシムスは『説教17』で厳しくこう述べます。「実際、多くのキリスト信者は自分のもっているものを与えないばかりか、ほかの人がもっているものまで奪っています。彼らは集めたお金を使徒の足もとに置かないだけでなく、司祭の足もとから助けを求める兄弟を引きずり出しています」。マクシムスはこう結びます。「わたしたちの町には多くの旅人や巡礼者がいます」。信仰に従って行った「約束を果たしなさい。そうすれば、アナニアに向けていわれたことがあなたがたにもいわれずにすむでしょう。『あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ』(使徒言行録5・4)」(『説教17』:Sermones 17, 2-3)。 
 続いて『説教18』の中でマクシムスは、他人の不幸から不当な利益を得るという、しばしば見られる行為を批判します。司教マクシムスは信者をとがめていいます。「キリスト信者よ、わたしにいいなさい。なぜ強盗が残した分捕り品を自分のものにしたのですか。なぜ、人から剥ぎ取った、汚れた(あなたのいうところの)『利得』を自分の家に持ち帰ったのですか」。続いてマクシムスはいいます。「しかし、おそらくあなたは、これは買い取ったのだというのでしょう。だから自分は貪欲だと非難されるいわれはないと考えるのでしょう。けれども、あなたがたのしたことは売買といえるものではありません。何かを買うのはよいことです。しかしそれは、平和なとき、すなわち人が自由に何かを売る場合にいえることです。強奪が行われたとき、すなわち何かが無理やり奪われたときはそうではありません。・・・・ですから、キリスト信者にふさわしいしかたで、また市民にふさわしいしかたで行動しなさい。市民は弁償するために買い戻すからです」(『説教18』:Sermones 18, 3)。このようなしかたでマクシムスはキリスト信者の義務と市民の義務の深いつながりについて説教を行いました。マクシムスにとって、キリスト教的生活を行うことは、市民としての務めを果たすことでもありました。逆に、キリスト信者が「自分の労働によって生きていくことができるにもかかわらず、野獣のようにたけだけしく他人のものを奪って自分のものとする」なら、また「隣人をつけねらい、毎日隣人の垣根を破ろうと試み、収穫物を奪う」なら、そのようなキリスト信者は鶏を殺す狐以下であり、豚を襲う狼にほかならないと思われます(『説教41』:Sermones 41, 4)。
 よく知られているように、戦争捕虜を救うためにアンブロジオは賢明な防衛的行動をとりました。それと比べると、アンブロジオの時代以来、司教と国家機関の関係に歴史的変化が起きていたことがわかります。ローマ帝国の国家権力が崩壊した状況にあって、マクシムスは、キリスト信者が戦争捕虜を買い戻すことを促す当時の法に基づいて、トリノの町を統治するために真の意味での自らの権力を行使することが正当化されていることをはっきりと自覚しました。この権力はやがていっそう広範かつ実効的なものとなりました。マクシムスは逃亡したトリノの行政官と行政機関を代行することになったからです。こうした状況の中でマクシムスは、信者のうちにトリノに対する古来の「祖国」(patria)愛をかきたてることに努めました。またマクシムスは、たとえそれが重く不愉快なものに思われても、税負担をきちんと担う義務があることも宣言しました(『説教26』:Sermones 26, 2)。要するに、『説教集』の調子と内容は、特殊な歴史的状況に置かれた司教がますます政治的責任を自覚するようになったことを示しています。マクシムスはトリノの町の「見張り台」でした。マクシムスは『説教92』で問いかけます。「いわば知恵の岩の上に置かれ、民を守るために、遠くから近づいてくる敵を見張る聖なる司教のほかに」誰がこの見張り台となることができるでしょうか。『説教89』の中でトリノの司教マクシムスは、司教の役割と蜂の役割を比べる独特なたとえを用いて、自らの務めを信者に説明します。マクシムスはいいます。「司教は、蜂と同じように、身体の貞潔を守り、天のいのちの糧を与え、法の針を用います。司教は聖化するためには清く、力づけるためには優しく、罰するためには厳しくなければなりません」。これが聖マクシムスの述べた、当時の司教の務めでした。
 要するに、歴史的・文献的な分析から、マクシムスは教会権力の政治的な責任をますます自覚するようになったことが示されます。実際マクシムスは、教会権力が国家権力を代行しなければならない状況に置かれていました。実にこれが、「修道士のように」ヴェルチェリに住んだエウセビオ(Eusebius Vercellensis 4世紀初頭-371年)に始まり、「見張りのように」町の高い岩の上に置かれたトリノのマクシムスに至るまでの、イタリア北西部において司教職がたどった発展の道です。いうまでもなく、現代の歴史的・文化的・社会的状況はまったく異なります。現代の状況は、わたしの敬愛すべき前任者である教皇ヨハネ・パウロ二世がシノドス後の使徒的勧告『ヨーロッパにおける教会』で述べています。この使徒的勧告の中でヨハネ・パウロ二世は、現代ヨーロッパの問題と希望のしるしを詳しく分析します(同6-22)。いずれにしても、状況の変化にかかわらず、国家と祖国に対して信者が負う義務は、いつまでも変わることがありません。「誠実な市民」の務めと「善良な信者」の務めの間の密接な関係はけっしてなくなりません。
 最後にわたしは、キリスト教的生活が一つに統合される上でもっとも重要な点について『現代世界憲章』が述べていることを思い起こしたいと思います。それは、信仰と行い、福音と文化の一貫性です。公会議は信者が「福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励する。われわれがこの世に永続の国をもたず、未来の国を求めることを知っていて、それゆえに地上の義務を怠ってもよいと考える者は間違っている。信仰そのものが、自分の受けた召命に応じて地上の義務を果たすべきことを彼らにいっそう強く命じていることを忘れているからである」(同43)。聖マクシムスや多くの教父の教えに従って、公会議の願いをわたしたちの願いとしたいと思います。公会議は次のように望みます。信者は「人間的・家庭的・職業的・学問的・技術的努力を宗教的価値と結びつけて生き生きとした一つの総合としてまとめることによって、自分のあらゆる地上的活動を行うことを喜びとしなければならない。この宗教的価値による崇高な秩序づけによって、すべては神の栄光に向けて」そしてそこから人類の善に向けて「調整される」(同)のです。

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