教皇ベネディクト十六世の116回目の一般謁見演説 聖ヒエロニモ(二)

11月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の116回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の […]

11月14日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の116回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の59回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の27回目)として、前週に続きあらためて「聖ヒエロニモ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、詩編19編8-9節が朗読されました。
演説の後、教皇はフランス語で次のあいさつを行いました。
「フランス語を話す皆様、特にバナール司教に伴われたベレ=アルスの若い司祭の皆様にごあいさつ申し上げることができることをうれしく思います。何よりも、バユーとリジュー教区のピカン司教に伴われて、幼きイエスと聖なるみ顔の聖テレーズ(1873-1897年)の聖遺物とともに来られたフランスの巡礼者の皆様にごあいさつ申し上げます。わたしたちは120年前、小さいテレーズがレオ十三世に謁見するためにここローマに来たことを思い起こします。それは若年であったにもかかわらずカルメル会に入会する許可を求めるためでした。80年前、ピオ十一世はテレーズを宣教の守護聖人と宣言し、1997年に教皇ヨハネ・パウロ二世は彼女を教会博士としました。この謁見の後、今週、多くの信者がローマのさまざまな教会で行ったのと同じように、テレーズの聖遺物の前で祈ることができることをうれしく思います。聖テレーズは聖書をよく理解できるように聖書のことばを学ぶことを望みました。聖テレーズと聖ヒエロニモの模範に従いながら、しばしば聖書を読む時間をもつようにしてください。神のことばに親しむことを通じて、皆様はキリストと出会い、キリストとの親しい関係を保つことができます。わたしの使徒的祝福を与えます」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちは聖ヒエロニモ(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)についての考察を続けます。先週の水曜日にお話ししたように、聖ヒエロニモは聖書の研究に生涯をささげました。そのためわたしの先任者である教皇ベネディクト十五世はヒエロニモを「聖書解釈における優れた博士」と呼びました。ヒエロニモは聖書のテキストと親しむことの喜びと重要性を強調しました。「ほかの何ものも求めることなく、聖書のテキストを生き、黙想するとき、すでに地上において天の国にいるのを感じないでしょうか」(『書簡53』:Epistulae 53, 10)。実際、神とそのことばと対話するというのは、ある意味で、天国にいることです。すなわち、神のみ前にいることです。聖書、特に新約聖書に近づくことは信者にとって不可欠です。なぜなら「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」だからです。この有名なことばは第二バチカン公会議の『啓示憲章』(Dei Verbum 25)にも引用されています。
 ヒエロニモはまことに神のことばに「心を奪われ」ながら自らに問いかけました。「聖書を知らないでどのようにして生きることができるでしょうか。聖書を知ることによって、信じる者のいのちであるキリスト自身を知ることを学ぶからです」(『書簡30』:Epistulae 30, 7)。聖書は「神が日々信者に語りかけるための」(『書簡133』:Epistulae 133, 13)手段です。それゆえ聖書は、あらゆる状況において、またすべての人にとって、キリスト教生活の刺激また源泉となります。聖書を読むことは神と語ることです。ヒエロニモはローマの若い高貴な女性に宛ててこう述べます。「あなたは祈ります。すなわち、あなたは花婿に語りかけます。あなたは読みます。すなわち、彼はあなたに話しかけます」(『書簡22』:Epistulae 22, 25〔荒井洋一訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、698頁〕)。聖書を学び、黙想することにより、人は賢明さと落ち着きを得ます(『エフェソ書注解』:Commentarii in Epistulam ad Ephesios, prologus)。もちろん神のことばをいっそう深く理解するためには、絶えず、またますます聖書を学ぶことが必要です。だからヒエロニモは司祭ネポティアヌス(Nepotianus 396年没)に勧めます。「しばしば聖書を読みなさい。聖書を手から置くことさえないようにしなさい。教えるべきことを聖書から学びなさい」(『書簡52』:Epistulae 52, 7)。ヒエロニモはローマの高貴な女性ラエタ(Laeta)に宛てて、彼女の娘のキリスト教的教育のために次の助言を与えます。「毎日、聖書のある箇所を学ばせなさい。・・・・それは祈りが読むことに続き、読むことが祈りに続くようにするためです。・・・・あなたの娘が宝石や絹の衣服よりも聖書を愛するようになりますように」(『書簡107』:Epistulae 107, 9.12)。聖書を黙想し、知ることによって、人は「魂の均衡を保ちます」(『エフェソ書注解』:Commentarii in Epistulam ad Ephesios, prologus)。深い祈りの精神と聖霊の助けがあって初めて、わたしたちは聖書の理解へと導かれることができます。「わたしたちは聖書を理解するためにいつも聖霊の助けを必要とします」(『ミカ書注解』:Commentarii in Micham 1, 1, 10, 15)。
 それゆえ聖書に対する情熱的な愛はヒエロニモの全生涯を貫いています。ヒエロニモはこの愛を信者のうちにも呼び覚まそうと常に努めました。彼は霊的な娘に勧めます。「聖書を愛しなさい。そうすれば、知恵があなたを愛するでしょう。聖書を心から愛しなさい。そうすれば、聖書はあなたを守るでしょう。聖書を敬いなさい。そうすれば、聖書はあなたに触れるでしょう。あなたにとって聖書が首飾りや耳飾りと同じようなものになるように」(『書簡130』:Epistulae 130, 20)。ヒエロニモはまたいいます。「聖書を知ることを愛しなさい。そうすれば、あなたは肉の悪徳を愛することがなくなるでしょう」(『書簡125』:Epistulae 125, 11)。
 ヒエロニモにとって聖書を解釈するための基本的な基準は教会の教えに従うことでした。わたしたちは一人で聖書を読むことはできません。わたしたちの前では多くの戸が閉ざされています。わたしたちはすぐに間違いを犯します。聖書は神の民によって、神の民のために、聖霊の霊感によって書かれました。この神の民との交わりにおいて初めてわたしたちは、この「わたしたち」とともに、真の意味で神ご自身がわたしたちにいおうとしておられる真理の核心に達することができます。ヒエロニモにとって、聖書の真正な解釈は常にカトリック教会の信仰と調和し、一致していなければなりませんでした。カトリック教会の信仰との一致は、聖書に外から押しつけられるものではありません。聖書は旅する神の民の声そのものです。それゆえこの民の信仰のうちに、初めてわたしたちは、いわば正しい音階で聖書を理解することができるのです。だからヒエロニモはこう注意しました。「教えられた伝統的な教理からけっして離れないようにしなさい。それは、健全な教えに従って勧告し、健全な教えに反する人々を論駁することができるようになるためです」(『書簡52』:Epistulae 52, 7)。何よりも、イエス・キリストは教会をペトロの上に据えました。そこからヒエロニモはいいます。キリスト信者は皆、「聖ペトロの座との」交わりのうちになければなりません。「この岩の上に教会が建てられたことをわたしは知っているからです」(『書簡15』:Epistulae 15, 2)。したがって、ヒエロニモはきっぱりと宣言します。「わたしは聖ペトロの座と一致しているすべての人とともにいます」(『書簡16』:Epistulae 16)。
 いうまでもなくヒエロニモは聖書の倫理的側面もないがしろにしませんでした。ヒエロニモは生活を神のことばと一致させなければならないとしばしば述べます。彼はまた、聖書を生きることによって初めて聖書を理解できるようになるといいます。このような一貫性はすべてのキリスト信者にとって、特に説教者にとってなくてはならないものです。それは、自分の言行が一致しないことによって恥をかくことがないためです。そこでヒエロニモは司祭ネポティアヌスに勧告します。「あなたの行いがあなたのことばを裏切ることがないようにしなさい。あなたが教会の中で説教するときに、誰かが心の中で『なぜあなた自身がそれを行わないのですか』ということがないためです。満腹の教師が断食について話すほど滑稽なことはありません。泥棒でも貪欲を非難できます。しかし、キリストの司祭にあっては思いとことばが一致していなければなりません」(『書簡52』:Epistulae 52, 7)。別の書簡でヒエロニモはいいます。「すばらしい教えに通じていても、自分の良心にとがめられる人は恥ずべきです」(『書簡127』:Epistulae 127, 4)。ヒエロニモはいいます。常にことばと行いを一致させながら、福音を真の意味での愛のわざによって実行しなければなりません。なぜなら、すべての人のうちにキリストご自身がおられるからです。たとえば司祭パウリヌス(パウリヌスは後にノラの司教となり、聖人となりました)にヒエロニモはこう助言します。「まことのキリストの神殿は信者の魂です。この聖所を敬い、飾り、そこにあなたの献げ物をささげなさい。そうしてキリストを受けなさい。キリストが貧しい人の姿で飢え死にしているのに、あなたは何のために宝石をちりばめた壁を修理するのですか」(『書簡58』:Epistulae 58, 7)。ヒエロニモははっきりといいます。「貧しい人の中にいるキリストに着せ、苦しむ人のうちにいるキリストを訪ね、飢えている人のうちにいるキリストに食べさせ、住む家のない人のうちにいるキリストを泊め」(『書簡130』:Epistulae 130, 14)なければなりません。わたしたちは研究と黙想によって深められたキリストへの愛によって、あらゆる困難を乗り越えることができます。「わたしたちもまたキリストを愛そうではありませんか。いつもキリストの抱擁を求めようではありませんか。そうすれば、いかなる困難なことも容易なことに見えてくるでしょう」(『書簡22』:Epistulae 22, 40〔前掲荒井洋一訳、720頁〕)。
 アクイタニアのプロスペル(Prosper Tiro Aquitanus 390頃-455年以降)はヒエロニモを「人類の行動の模範であり師」(『忘恩の徒について』:Carmen de ingratis 57)といいます。このヒエロニモはキリスト教的禁欲生活についてもさまざまな豊かな教えをわたしたちに残してくれました。ヒエロニモはいいます。完徳をめざす勇気ある努力は、絶えざる注意と頻繁な克己(その際、中庸と賢慮も必要ですが)、怠惰を避けるための熱心な知的作業と手作業(『書簡125』:Epistulae 125, 11; 『書簡130』:Epistulae 130, 15参照)、そして何よりも神への従順を必要とします。「従順ほど神を喜ばせるものはありません。・・・・従順はもっとも気高く、かけがえのない徳です」(『説教――従順について』:Tractatus de oboedientia, CCL 78, 552)。禁欲生活の道には巡礼の実践も含まれます。特にヒエロニモは聖地巡礼を奨励しました。ヒエロニモは聖地で巡礼者を迎え入れ、ベツレヘムの修道院に隣接した施設に泊めました。この施設はヒエロニモの霊的な娘である高貴な女性パウラの援助で建てられたものです(『書簡108』:Epistulae 108, 14参照)。
 最後にキリスト教教育の分野へのヒエロニモの貢献について触れないわけにはいきません(『書簡107』:Epistulae 107; 『書簡128』:Epistulae 128参照)。ヒエロニモは神の目から見て「もっとも貴い宝石」(『書簡107』:Epistulae 107, 13)である、「主の神殿となるべき魂」(『書簡107』:Epistulae 107, 4)を養成するよう提案します。深い洞察に基づいて、ヒエロニモは勧めます。魂を悪や罪の機会から守るように。また、頼りなく、はかない友愛を退けるようにと(『書簡107』:Epistulae 107, 4; 8-9参照。『書簡128』:Epistulae 128, 3-4も参照)。何よりもヒエロニモは両親に対してこう勧告します。子どもの周りに喜びに満ち、落ち着いた環境を作ること。場合によってほめたり、競争させることを通して、子どもを勉学と仕事へと促すこと(『書簡107』:Epistulae 107, 4; 『書簡128』:Epistulae 128, 1参照)。困難に打ち勝つよう子どもを励ますこと。子どものうちによい習慣を育て、悪い習慣を身につけることから守ること。なぜなら(ここでヒエロニモは学校で習ったプブリリウス・シュルス(Publilius Syrus 前1世紀)のことばを引用します)、「自分が安住しているものを矯正することに成功するのは困難」(『書簡107』:Epistulae 107, 8)だからです。両親は子どもの主要な教育者であり、人生で最初の教師です。少女の母親に向かって、それから父親に対して、ヒエロニモははっきりと勧告します。ヒエロニモは、あたかも生まれてきたすべての人が根本的に必要とするものについて述べるかのように勧告を行います。「娘があなたのうちに教師を見いだすことができますように。経験を積んでいない者があなたを驚嘆のまなざしで見ることができますように。娘が、母親であるあなたのうちにも、父親のうちにも、真似れば罪に導かれるような行いをけっして目にすることがありませんように。・・・・娘を教育できるのは、ことばではなく模範だということを忘れてはなりません」(『書簡107』:Epistulae 107, 9)。ヒエロニモの教育者としての主な洞察の中で、わたしたちが注目すべきなのは次のことです。幼児期からの健全で全人的な教育を重視すること。両親の特別な責任を認めること。しっかりした道徳・宗教教育が必要なこと。そして、より完全な人間教育のための研究が必要なことです。さらに、古代の人々が無視しながら、ヒエロニモがはっきりと心にとめていたのは、女性の地位の向上でした。ヒエロニモは女性が完全な教育を受ける権利を認めていたからです。この教育は人間的、学問的、宗教的、そして専門的教育を含みます。実際わたしたちは、現代にあって、全面的な人格教育、すなわち神と人間に対する責任に向けた教育が、あらゆる発展、平和、和解、そして暴力の根絶の真の条件であることを知っています。それは神と人間の前での教育です。聖書はわたしたちに教育と、人間中心主義への導きを与えてくれます。
 この偉大な教父に関する短い解説を終えるにあたり、初期キリスト教文明の中で古代ユダヤ・ギリシア・ローマ文化がもつ積極的で有意味な要素を守るためにヒエロニモが行った優れた貢献に言及しなければなりません。ヒエロニモは古典の中に見られる芸術的価値と豊かな感性と調和のとれたイメージを認め、受け入れました。これらのものは心と想像力を高貴な感性へと導くものだからです。ヒエロニモは何よりも神のことばを生涯と活動の中心に置きました。神のことばは人間に人生の道と聖性の秘密を示します。これらすべてのことのゆえに、現代のわたしたちはヒエロニモに深く感謝せずにはいられません。

略号
CCL=Corpus Christianorum Series Latina

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