教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見演説 ペルシアの賢者アフラハト

11月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の […]

11月21日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の60回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の28回目)として、「ペルシアの賢者アフラハト」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書6章6-8節が朗読されました。謁見には約15,000人の信者が参加しました。
演説の後、最後にイタリア語で行われたイタリア人の巡礼者に対するあいさつの中で、教皇は東アフリカのソマリアの情勢について、次の呼びかけを行いました。
「ソマリア、特にモガディシュの不安定な人道的情勢に関する悲しむべき知らせが届いています。ソマリアはこれまでにもまして深刻な形で社会不安と貧困に苦しんでいます。わたしは情勢の推移を心配しながら見守っています。そして、地域レベル、国際レベル双方の政治的指導者に呼びかけます。どうか平和的解決を見いだし、この愛する人々に安定をもたらしてください。さらにわたしは、悪い治安と悪条件の中で、この地域にとどまり、住民に支援と慰めをもたらそうと努める人々を励まします」。
ソマリアでは首都モガディシュで、暫定連邦政府を支援するエチオピア軍と、イスラム原理主義勢力「イスラム法廷会議」の残存勢力の戦闘が激化しています。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、20日(火)、国内避難民が100万人に達したとの推計を発表しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 わたしたちは教父の世界を旅しています。今日わたしは信仰の世界においてあまり知られていない地域へと皆様を導きたいと思います。すなわち、ギリシア思想の影響をまだ受けることなく、セム語を話す教会が栄えていた地域です。この教会は、4世紀を通じて、聖地からレバノンとメソポタミアに至る中近東で発展しました。教会と文学の形成期であった4世紀に、この共同体では、エジプトの修道制の影響を受けず、土着的性格をもった修徳的・修道的現象が見られました。それゆえ4世紀のシリアの共同体は、セム語的世界を代表します。セム語は、聖書そのものがそこから生まれた言語です。そしてこの共同体が示すキリスト教は、他の文化思潮と接触することなく、独自の思考様式を保った神学を形成しました。この教会における修徳生活はさまざまな隠修生活の形態をとりました(砂漠の隠遁者、洞窟の隠遁者、隠修士、柱頭行者)。共同生活の形で行われる修道制も神学・霊的思想の発展において重要な役割を果たしました。
 わたしはこのキリスト教世界を、アフラハト(Aphrahat 345年以降没)を通じて紹介したいと思います。「賢者」の異名でも知られるアフラハトは、4世紀シリア・キリスト教の、もっとも重要でありながら、きわめて謎めいた性格をもった思想家です。
 アフラハトは現在のイラクのニネヴェ・モスル地域に生まれ、4世紀前半に活動しました。アフラハトの生涯についてはあまり知られていません。彼はシリア教会の修徳的・修道的環境と密接な関係をもっていました。アフラハトの著作にはこの修徳的・修道的環境に関する記述があり、またアフラハトはこれについて多くの考察を加えているからです。ある資料によるとアフラハトは修道院長を務め、後に司教にも叙階されました。アフラハトは『解説』ないし『説明』の名で知られる23の論考を著しました。この論考の中でキリスト教生活のさまざまなテーマが扱われます。たとえば、信仰、愛、断食、謙遜、祈り、修徳生活、またユダヤ教とキリスト教の関係、旧約と新約の関係です。アフラハトの著作は単純な形式で書かれています。彼は短い文を用いますが、二つのものを対照させる対句法を用いることもあります。しかし彼はさまざまな議論を明快な形で展開しながら一貫した論述を行うことができました。
 アフラハトはユダヤ教とキリスト教の境界に立つ教会共同体の出身でした。共同体はエルサレムの母教会と緊密に結ばれ、共同体の司教は伝統的に、いわゆる「主の兄弟」(マルコ6・3参照)ヤコブの「親戚」から選ばれました。共同体は血と信仰によってエルサレム教会と結ばれていました。アフラハトはシリア語を話しました。シリア語は、旧約聖書のヘブライ語やイエスご自身が話したアラム語と同じセム語です。アフラハトが生活した教会共同体はユダヤ人キリスト教徒の伝統に忠実にとどまることをめざしました。彼らは自らをユダヤ人キリスト教徒の子孫と考えたからです。それゆえ彼らはユダヤ教世界と聖書との緊密な関係を保ちました。意味深いことにアフラハトは自分を旧約と新約を含めた「聖書の弟子」(『解説』22・26)と呼んでいます。アフラハトは聖書を霊感の唯一の源泉と考え、聖書が自分の考察の中心となったと何度も述べています。
 アフラハトは『解説』の中でさまざまな議論を展開しています。シリアの伝統に忠実に従いながら、彼はキリストのもたらした救いをいやしとして示します。それゆえキリストは医師です。これに対して罪は傷と考えられます。悔い改めだけが罪をいやすことができます。アフラハトはいいます。「戦争で傷ついた人は、賢い医師の手に自らをゆだねることを恥じません。・・・・それと同じように、サタンによって傷つけられた人は、自分の過ちを認め、その過ちから離れるために、悔い改めという薬を求めることを恥じるべきではありません」(『解説』7・3)。アフラハトの著作のもう一つの重要な要素は、祈りについての教え、特に祈りの師としてのキリストについての教えです。キリスト信者はイエスの教えと、イエスの祈りの模範に従って祈ります。「わたしたちの主は祈ることを教えてこういわれました。『あなたが祈るときは、隠れたところにおられ、すべてを見ておられるかたに、隠れたところで祈りなさい』。主はまたこういわれました。『自分の部屋に入って、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる』(マタイ6・6)。・・・・わたしたちの主は、神が心の望みと思いを知っておられることを示そうと望んでこういわれたのです」(『解説』4・10)。
 アフラハトにとってキリスト教的生活はキリストに倣うことを中心とします。キリストに倣うとは、キリストのくびきを負い、キリストに従って、福音の道を歩むことです。キリストの弟子にとって何よりも不可欠な徳は、謙遜です。謙遜はキリスト信者の霊的生活において二義的な性格のものではありません。人間の本性は謙遜です。そしてこの謙遜をご自身の栄光へと上げてくださるのは神です。アフラハトはいいます。謙遜は消極的な意味のものではありません。「人間の根が大地に植えられているなら、人間の実は偉大な主のみ前で高く上がります」(『解説』9・14)。キリスト信者は、自分が生きている地上の現実においても謙遜であり続けることによって、主との関係に入ることができます。「謙遜な人はへりくだります。しかし、謙遜な人の心はいと高きところへと上げられます。謙遜な人の目は地上を見つめますが、彼の精神の目はいと高きところを仰ぎ見ます」(『解説』9・2)。
 アフラハトは人間と身体的現実についてきわめて積極的に考えました。人間の身体は、謙遜なキリストの模範に倣って、美と喜びと光へと招かれています。「神は愛する人に近づきます。謙遜を愛し、謙遜な状態にとどまることは正しいことです。謙遜な人は単純で、忍耐強く、愛に満ち、誠実で、正しく、よいことに通じ、賢明で、落ち着いており、知恵深く、静かで、平和を保ち、憐れみ深く、進んで回心し、寛大で、思慮深く、慎重で、美しく、人から愛されます」(『解説』9・14)。アフラハトはしばしばキリスト教的生活を修徳的・霊的次元においてはっきりと示します。キリスト教的生活の基盤また基礎となるのは信仰です。信仰は人間を神殿とします。この神殿の中にキリストご自身が住まわれます。それゆえ信仰は真の意味での愛を可能にします。この愛は神と隣人への愛によって表されます。アフラハトにおいてもう一つの重要な要素は、断食です。アフラハトは断食を広い意味で考えます。アフラハトが語る断食には次のものがあります。愛に富む者となり、清くなるために実践することが必要な、食事の断食。聖性に達するための、克己による断食。空しく、憎むべきことばをいわない断食。怒りから離れる断食。奉仕職のために富をもたない断食。祈るために眠らない断食。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。終わりに、アフラハトの祈りについての教えをもう一度取り上げたいと思います。この古代の「賢者」によれば、祈りが現実のものとなるには、キリストがキリスト信者の心に住まなければなりません。そうすれば、キリストは彼らを、いつも隣人を愛することに努めるよう招きます。実際、アフラハトはこう述べます。
 「弱った人を慰め、病気の人を見舞い、
 貧しい人を気遣いなさい。これが祈りです。
 祈りはいつくしみ深く、祈りのわざは美しい。
 隣人を慰めるなら、祈りは受け入れられます。
 罪のゆるしが含まれていれば、祈りは聞き入れられます。
 神の力に満ちていれば、祈りは力強いものとなります」(『解説』4・14-16)。
 このことばによってアフラハトはわたしたちを祈りへと招きます。この祈りがキリスト教的生活となるからです。キリスト教的生活とは、信じ、神に心を開き、そこから隣人を愛することによって満たされ、完成された生活です。

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