教皇ベネディクト十六世の2007年12月2日の「お告げの祈り」のことば キリスト教的希望について

教皇ベネディクト十六世は、待降節第一主日の12月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタ […]

教皇ベネディクト十六世は、待降節第一主日の12月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
教皇は11月30日(金)、キリスト教的希望をテーマとする二番目の回勅『スペ・サルヴィ(Spe salvi)』を発表しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の待降節第一主日から新しい典礼暦年が始まります。神の民は、歴史の中でキリストの神秘を体験するために、あらためて旅路を歩み始めます。キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないかたです(ヘブライ13・8参照)。しかし歴史は移り変わり、たえず福音が告げ知らされることを求めます。歴史は内側から刷新されなければなりません。そして、唯一、真に新しいかたはキリストです。キリストは歴史の完全な意味での完成であり、人類と世界の光り輝く未来だからです。イエスは死者の中から復活した主です。このかたに、神は、死そのものを含めた、あらゆる敵を服従させます(一コリント15・25-28参照)。それゆえ待降節は、わたしたちの心のうちに「今おられ、かつておられ、やがて来られるかた」(黙示録1・8)への期待を呼び覚ますためのまたとない機会です。神の子はすでに二千年前にベツレヘムに来られ、このかたを受け入れる準備ができた魂と共同体のうちにあらゆるときに来られ、「生者と死者を裁くために」世の終わりに再び来られます。それゆえ信じる者はいつも目覚めて、主とあいまみえることへの内なる希望によって力づけられていなければなりません。詩編がいうようにです。
 「わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 みことばを待ち望みます。
 わたしの魂は主を待ち望みます。
 見張りが朝を待つにもまして」(詩編130・5-6)。
 それゆえ今日の主日は、全教会とすべての善意の人に向けてわたしの二番目の回勅を示すのにもっともふさわしい日です。わたしはこの回勅で、キリスト教的希望というテーマを取り上げることを望みました。回勅の題名は『スペ・サルヴィ(Spe salvi)』です。回勅は「わたしたちは、このような希望によって救われているのです(Spe salvi facti sumus)」(ローマ8・24)という聖パウロのことばで始まるからです。新約聖書の他の箇所と同じように、この箇所で「希望」ということばは「信仰」ということばと密接に結ばれています。希望は、希望を受け入れる人の生活を造り変えるたまものです。多くの聖人の経験が示すとおりです。わたしたちは「希望のうちに」「救い」を与えられるといいます。それほどまでに大きく「信頼できる」希望は、何に基づくのでしょうか。希望は、本質的に、神を知ることに基づきます。いつくしみと憐れみに満ちた、父である神のみ心を見いだすことに基づきます。イエスは、十字架上で死に、復活することによって、わたしたちにこの神のみ顔を示しました。愛に満ちた神は、揺るぐことのない希望をわたしたちに与えてくださいました。死もこの希望を砕くことはできません。この父に信頼する人のいのちは、永遠の至福の約束へと開かれているからです。
 近代科学の発展は、信仰と希望を、私的で個人的な領域へと追いやりました。だからこそ、現代において、はっきりと、ときには悲惨なまでに、人類と世界は神を、それも真の神を必要としているように思われます。神がいなければ、希望は失われたままだからです。科学は多くのよいものを人類に与えてくれました。そのことは間違いありません。けれども科学は人間をあがなうことができません。人間をあがなうのは愛です。愛は個人と社会の生活を寛大で美しいものにするからです。だから大いなる希望を保証するのは、すなわち完全で決定的な希望を保証するのは、神なのです。神は愛だからです。神はイエスのうちにわたしたちを訪れて、わたしたちにいのちを与え、また世の終わりにイエスのうちに再び来られるからです。わたしたちはイエスのうちに希望します。わたしたちはイエスを待ち望みます。教会はイエスの母マリアとともに、花婿であるかたに会いに出かけます。教会はそれを愛のわざを通して行います。信仰も、希望も、愛のうちに示されるからです。
 皆様にとってよい待降節となりますように。

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