教皇ベネディクト十六世の119回目の一般謁見演説 アクイレイアの聖クロマティウス

12月5日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の119回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の62回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の30回目)として、「アクイレイアの聖クロマティウス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヘブライ人への手紙13章7-9節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 前の2回の講話でわたしたちはセム語を話す中近東の教会に旅して、ペルシアのアフラハトとシリアの聖エフレムについて考察しました。今日わたしたちは西方ラテン世界、それもローマ帝国の北部に戻り、アクイレイアの聖クロマティウス(Chromatius Aquileiensis 407年頃没)を考察します。この司教は古代のアクイレイアの教会でその奉仕職を果たしました。アクイレイアはローマ帝国の第10属州「ヴェネティア・エト・ヒストリア(Venetia et Histria)」にあってキリスト教的生活の生き生きとした中心でした。388年、クロマティウスがアクイレイアの町の司教座に上げられたとき、この地域のキリスト教共同体はすでに福音への信仰における輝かしい歴史で満たされていました。3世紀半ばから4世紀初頭にかけて、デキウス帝(Gaius Messius Quintus Decius 在位249-251年)、ウァレリアヌス帝(Publius Licinius Valerianus 在位253-260年)、ディオクレティアヌス帝(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus 在位284-305年)の迫害が多数の殉教者の命を奪いました。さらにアクイレイアの教会は、当時の他の多くの教会と同じように、アレイオス派の異端の脅威にさらされていました。ニケア公会議の正統教義の主唱者であり、アレイオス派によって追放されたアタナシオ(Athanasios 295頃-373年)も、一時アクイレイアに逃れていました。司教たちの指導の下に、アクイレイアのキリスト教共同体は異端の企てに立ち向かい、カトリック信仰との一致を強めました。
 381年9月、アクイレイアは教会会議を開催しました。この教会会議にはアフリカ北部、ローヌ渓谷、そして第10属州全域から約35名の司教が集まりました。この教会会議の目的は、西方におけるアレイオス派の最後の残党を滅ぼすことでした。司祭クロマティウスはアクイレイアの司教ウァレリアヌス(Valerianus 在位3701/371-387/388年)の顧問として教会会議に参加しました。381年の教会会議前後の時期はアクイレイアの共同体の「黄金時代」でした。ダルマティア出身の聖ヒエロニモ(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)とコンコルディア出身のルフィヌス(Tyrannius Rufinus 345頃-410/411年)は、彼らがアクイレイアに滞在(370-373年)したときのことを懐かしく語っています。アクイレイアには一種の神学のグループが存在していました。ヒエロニモはそれを「祝福された人々の聖歌隊のようだった(tanquam chorus beatorum)」(『司祭聖ヒエロニモ年譜』:Chronica S. Gironimi presbyteri, PL 27, 697-698)とはばかることなくいいます。ある意味でヴェルチェリのエウセビウス(Eusebius Vercellensis 4世紀初頭-371年)とアウグスチヌス(Augusinus 354-430年)の共同体的経験を思い起こさせる、このグループは、北アドリア海沿岸地方の教会の重要な人々を形成しました。
 クロマティウスはすでに家庭において、キリストを知り、愛することを学びました。ヒエロニモも最高の賛辞をもってそのことを語ります。ヒエロニモはクロマティウスの母を女預言者アンナに、二人の姉を福音のたとえ話の賢いおとめたちに、クロマティウス自身と兄弟エウセビウスを若いサムエルにたとえます(『書簡7』:Epistulae 7, PL 22, 341参照)。さらにヒエロニモはクロマティウスとエウセビウスについてこう述べます。「至福なるクロマティウスと聖なるエウセビウスは血の絆によってだけでなく、理想の形によっても兄弟でした」(『書簡8』:Epistulae 8, PL 22, 342)。
 クロマティウスは345年頃アクイレイアに生まれました。助祭、ついで司祭に叙階され、ついにはアクイレイアの教会の司牧者に選ばれました(388年)。司教アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)から司教叙階を受けたクロマティウスは、勇気と力をもって大きな課題に取り組みました。彼が司牧するようゆだねられたのは広大な領域だったからです。実際、アクイレイアの裁治権は現在のスイス、バイエルン、オーストリア、スロベニアからハンガリーにまで及びました。聖ヨハネ・クリゾストモ(Ioannes Chrysostomos 340/350-407年)の生涯の逸話から、クロマティウスが当時の教会でどれほど有名で尊敬されていたかを知ることができます。このコンスタンチノープルの司教が司教座から追放されたとき、皇帝の支持を得るために、彼は西方教会でもっとも重要と考えた司教に宛てて3通の手紙を書きました。1通目はローマ司教に、2通目はミラノ司教に、3通目はアクイレイアの司教、すなわちクロマティウスに宛てたものでした(『書簡155』:Epistulae 155, PG 52, 702)。クロマティウスにとっても、不安定な政治情勢によって、時代は困難なものでした。クロマティウスは、クリゾストモが死んだのと同じ年の407年、蛮族の侵入から逃れようとしているとき、追放先のグラドで死んだと思われます。
 その名声と重要性において、アクイレイアはイタリア半島第4の都市であり、ローマ帝国の中で第9の都市でした。そのためもあって、アクイレイアはゴート族とフン族にねらわれました。さらにこれらの蛮族の侵入は、甚大な殺戮と破壊をもたらしただけでなく、司教図書館に保管された多数の教父の著作の伝達も深刻な形で妨げました。聖クロマティウスの著作も散逸しました。著作は各地に散らばり、しばしば別の著者の著作とされました。たとえば、ヨハネ・クリゾストモ(それはクロマティウス[Chromatius]とクリゾストモ[Chrysostomos]という2つの名前が同じ音で始まるためでもありました)、あるいはアンブロジオやアウグスチヌス、またヒエロニモの著作とされることもありました。クロマティウスは聖書のテキスト校訂やラテン語訳においてヒエロニモを大いに助けたからです。幸いにもクロマティウスの著作の大部分が再発見されました。その結果、近年、きわめて一貫したクロマティウスの著作群が復元されました。すなわち、40以上の説教(Sermones XLIII)(そのうち10の説教は断片)、マタイによる福音書の60以上の注解(Tractatus LXI in Evangelium Matthaei)です。
 クロマティウスは知恵に満ちた「教師」であるとともに、熱心な「司牧者」でした。クロマティウスがまず何よりも努めたのは、みことばに耳を傾けることでした。それはみことばを告げ知らせることができる者となるためです。クロマティウスは教えの中でいつも神のことばから出発し、いつも神のことばに戻ります。クロマティウスはいくつかのテーマを特に好みました。まず何よりも「三位一体の神秘」です。彼は救いの歴史全体を通じて示されたこの神秘を観想しました。第二のテーマは「聖霊」です。クロマティウスは信者が教会生活における聖なる三位一体の第三の位格である聖霊の現存と働きを思い起こすように絶えず求めました。しかし聖なる司教クロマティウスが特に強調したのは「キリストの神秘」です。受肉したみことばは、真の神にして真の人です。みことばは完全な形で人性をとりました。それは人類にご自身の神性のたまものを与えるためでした。この真理が、アレイオス派を反駁するために再び主張されることにより、50年後のカルケドン公会議(451年)の定義に役立ったのです。キリストの人間本性をはっきり強調することから、クロマティウスは「おとめマリア」について語るよう導かれました。クロマティウスのマリアに関する教えは明快かつ正確です。わたしたちはクロマティウスから至聖なるおとめに関する意味深いことばを聞くことができます。マリアは「神を受け入れることのできた福音的なおとめ」です。マリアは「汚れも傷もない小羊」です。この小羊は「紫の衣をまとった小羊」を産みます(『説教23』:Sermones XXIII, 3, Scrittori dell’area santambrosiana 3/1, p. 134参照)。アクイレイアの司教クロマティウスはしばしばおとめマリアと教会を関連づけます。実際、おとめマリアと教会はともに「おとめ」にして「母」です。クロマティウスの「教会論」は何よりもマタイによる福音書の注解の中で展開されます。そこではいくつかの考えが繰り返し述べられます。教会は唯一であり、キリストの血から生まれました。教会は聖霊によって織られた尊い衣です。教会は、キリストがおとめから生まれたことを告げ知らせる場であり、兄弟愛と一致で満たされた場です。クロマティウスが特に好んだイメージは、嵐の海に浮かぶ船でした。すでにお話ししたように、クロマティウスも嵐のような時代に生きていました。聖なる司教はこう述べます。「この船が教会を表すことは間違いありません」(『マタイ福音書注解』:Tractatus LXI in Evangelium Matthaei XLII, 5, Scrittori dell’area santambrosiana3/2, p. 260)。
 熱心な司牧者だったクロマティウスは、新鮮で、生き生きとした、鋭いことばで自分の民に語ることができました。彼はラテン語の完全な語法を無視したわけではありませんが、民衆のことばを用いることを選びました。たくさんのわかりやすいたとえで語るためです。たとえば、海から着想を得ながら、彼は自然の漁(すなど)りと(そこでは魚は岸に引き上げると死んでしまいます)、福音を宣べ伝えることを比べます。福音が宣べ伝えられることによって、人間は死のぬかるみの水から救われ、真のいのちへと導かれます(『マタイ福音書注解』:Tractatus LXI in Evangelium Matthaei XVI, 3, Scrittori dell’area santambrosiana3/2, p. 106)。蛮族の侵入によって苦しむ荒廃した時代の中で、クロマティウスは常によい牧者のまなざしをもって信者に寄り添いました。それは、彼らを慰め、神を信頼するよう彼らの心を開くためでした。神はその子らをけっして見捨てることがないからです。
 最後に、この考察を終えるにあたり、クロマティウスの勧告の一つに耳を傾けたいと思います。この勧告は現代においても完全に通用します。『説教』の中でアクイレイアの司教クロマティウスは勧めます。「心をこめて、まったき信仰をもって主に祈ろうではありませんか。祈ろうではありませんか。どうかわたしたちをあらゆる敵の攻撃から、はむかう者への恐れから解放してください。主がわたしたちのいさおしではなく、ご自身の憐れみを顧みてくださいますように。主はかつてイスラエルの子らを、そのいさおしのゆえにではなく、ご自身の憐れみによって救い出してくださったからです。主が変わることのない憐れみの愛によってわたしたちを守ってくださいますように。そして、聖なるモーセがイスラエルの子らに告げたことを行ってくださいますように。『主があなたたちを守るために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい』(出エジプト14・14参照)。戦われるのは主であり、勝利をもたらされるのも主です。・・・・主にこのようにしていただくために、わたしたちはできるかぎり祈らなければなりません。実際、主ご自身が預言者の口をとおしてこう述べておられます。『苦難のときにわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを救い出し、あなたに栄光を与える』」(『説教16』:Sermones XVI, 4, Scrittori dell’area santambrosiana 3/1, pp. 100-102)。
 待降節の始めにあたり、聖クロマティウスはわたしたちに待降節が祈りの季節であることを思い起こさせてくれます。この祈りの季節の中で、わたしたちは神に触れなければなりません。神はわたしたちを知っておられます。わたしを知っておられます。わたしたち一人ひとりを知っておられます。神はわたしのためになることを望まれ、わたしを見捨てることがありません。このような信頼をもって、始まったばかりのこの季節を歩んでいこうではありませんか。
 皆様にとってよい待降節でありますように。

略号
PG=Patrologia Graeca
PL=Patrologia Latina

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