教皇ベネディクト十六世の120回目の一般謁見演説 ノラの聖パウリノ

12月12日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の120回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の63回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の31回目)として、「ノラの聖パウリノ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、マタイによる福音書5章3-10節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日わたしたちが目を向ける教父はノラの聖パウリノ(Paulinus Nolanus 353/354-431年)です。聖アウグスチヌス(Augusutinus 354-430年)の同時代人であり、アウグスチヌスと深い友情で結ばれていたパウリノは、カンパニアのノラで奉仕職を果たしました。パウリノはノラで修道士となり、その後、司祭そして司教になりました。しかしパウリノは南フランスのアクイタニア、正確にはボルドーの出身です。彼はボルドーの大富豪の家に生まれました。パウリノは、詩人アウソニウス(Decimus Magnus Ausonius 310頃-393/394年)を教師として、優れた文学教育を受けました。初めて故郷を離れたのは、若くして政治的職業に就くためでした。パウリノは若年にもかかわらずカンパニアの代理官になりました。代理官の職にあって、彼は驚くべき知恵と柔和のたまものを示しました。この時期に、恵みによってパウリノの心に回心の種がまかれました。この促しは、民衆が現在のチミティーレの巡礼所の殉教者(ノラの)聖フェリクス(Felix 311年以前頃没)の墓を崇敬する際に示した、単純で深い信仰によるものでした。パウリノは公共のことがらの責任者としてこの巡礼所に関心をもち、貧しい人のための宿泊所を建て、多くの巡礼者が容易に巡礼所に近づくことができるように道路を作りました。
 パウリノは、地上の国の建設に努めながら、天の国への道を見いだすようになりました。試練に満ちた労苦の末、パウリノはキリストとの出会いという目的地に達します。政治権力者からの反感などの苦い体験から、パウリノはこの世の空しさを実感しました。信仰を得たパウリノは述べます。「キリストをもたない人は、塵や影にすぎません」(『歌謡10』:Carmina X, 289)。人生の意味に光を与えることを望んで、パウリノはミラノに行き、アンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)の学校に入ります。それから彼は生まれ故郷のボルドーでキリスト教的教育を終え、ボルドーの司教デルフィヌス(Delphinus 401/403年没)の手で洗礼を受けました。結婚もパウリノの信仰の歩みにおいて役割を果たしました。パウリノはバルセロナの貴族の敬虔な娘テラシア(Therasia)と結婚し、一人の息子をもうけました。この息子が生後わずか数日で死ななければ、パウリノは善良なキリスト教信者として暮らし続けたことでしょう。息子の死は衝撃を与え、自分の人生についての神の計画は違うことをパウリノに示しました。実際、パウリノは厳しい修徳生活を通じてキリストに自らをささげるよう召されていることを感じました。
 パウリノは妻テラシアの完全な同意のもとに、貧しい人のために財産を売り払い、妻とともにアクイタニアを去ってノラに赴きました。夫妻はノラで守護聖人の聖フェリクスの聖堂の隣に住み、貞潔な兄弟姉妹として過ごし始めました。他の人々もこの生活様式に加わりました。共同体の生活は、典型的な修道生活に基づくものでした。バルセロナで司祭叙階を受けていたパウリノは、巡礼者のために司祭としての奉仕職も果たしました。パウリノはキリスト教共同体の支持と信頼を得て、409年頃、同地の司教の死後、ノラの司教座の後継者に選ばれました。パウリノはいっそう司牧活動に努めました。パウリノの司牧活動の特徴は、何よりも貧しい人への関心でした。パウリノは、愛に基づく真の司牧者の姿を残しました。大聖グレゴリオ(Gregorius Magnus 540頃-604年、教皇在位590-没年)が『対話』(Dialogi)第3巻で述べる通りです。そこには、パウリノがやもめの息子の身代わりに自分を囚人としてささげる英雄的な行動が記されています。この話が史実かどうかには議論の余地があります。しかしパウリノが寛大な心をもった司教だったことには変わりありません。司教パウリノは蛮族が侵入する不穏な状況の中で、民のそばにとどまったからです。
 パウリノの回心は同時代の人々に強い印象を与えました。異教徒の詩人だった、師アウソニウスは、自分が「裏切られた」と感じ、厳しいことばで書かれた手紙を送りました。アウソニウスはパウリノをなじりました。あなたは愚かにも物質的な財産を「軽蔑」し、文学への召命を捨てたと。パウリノはこたえていいます。貧しい人に施すことは、地上の富を軽蔑することではありません。むしろ、愛のわざという、より高い目的のために用いることによって、地上の富の価値を高めたのです。文学の仕事についていえば、パウリノは詩人としての才能を捨てたわけではありません。パウリノはこの才能を伸ばし続けているからです。パウリノが捨てたのは、神話や異教の理想の影響を受けた詩の形態です。今や新しい美の思想がパウリノの感性を導きます。それは、受肉し、十字架につけられて復活した神の美しさです。今やパウリノは、この神を歌う詩人となったのです。実際、パウリノは詩を捨てはしませんでした。しかし今や彼は福音から霊感を与えられます。彼が自ら詩の中でいう通りです。「わたしにとって、信仰こそが唯一の芸術であり、キリストこそがわたしの歌です(At nobis ars una fides, et musica Christus)」(『歌謡20』:Carmina XX, 32)。
 パウリノの詩は、信仰と愛の歌です。そこでは小さな出来事から大きな出来事に至るまで、日常生活の歴史が、救いの歴史として意味づけられます。救いの歴史とは、わたしたちとともにおられる神の歴史です。この詩集のかなりの部分を占める、いわゆる「カルミナ・ナタリキア(殉教者の誕生日を歌う歌)」は、殉教者フェリクスの記念日と関連します。パウリノはフェリクスを天上の守護聖人に選んだからです。フェリクスを記念しながら、パウリノはキリスト自身をたたえることをめざします。パウリノは、聖フェリクスの取り次ぎによって回心の恵みを与えられたと信じたからです。「あなたの喜ばしい光に照らされて、わたしはキリストを愛しました」(『歌謡21』:Carmina XXI, 373)。パウリノは、新たな聖堂を建てて巡礼所の区域を拡張することによって、同じ思いを表そうと望みました。適切な解説とともに壁画が描かれた聖堂は、巡礼者にとって目で見る信仰教育の場となりました。パウリノは自分の計画を、もう一人の偉大な要理教育者であるレメシアナの聖ニケタス(Nicetas Remesianensis 414年以降没)にささげた詩の中で説明します。パウリノはニケタスを伴って聖堂を訪れます。「さあ、柱廊の壁に連続して描かれた絵を見てください。・・・・フェリクスの家の中で、聖なるテーマを絵によって示すのは有益なことだとわたしは思います。農夫たちがこの壁画を目にするとき、描かれた姿が彼らの心に驚異に満ちた関心を呼び起こしてくれることを、わたしは願っているのです」(『歌謡27』:Carmina XXVII, 511; 580-583)。今日でもわたしたちはこの驚嘆すべき遺構を見ることができます。そのためノラの聖パウリノはキリスト教考古学においても注目されています。
 チミティーレの修道院において、生活は清貧と祈りと深い「霊的読書(lectio divina)」のうちに行われました。読み、黙想し、自分のものとすることにより、聖書は光となりました。この光のもとでノラの聖パウリノは自分の心を調べ、完徳をめざしました。パウリノが物質的な財産を放棄する決断をしたことに驚いている人に向かって、彼は、財産を放棄する行為が完全な回心を表すわけではないといいます。「自分が所有するこの世の富を捨てたり、売り払ったりすることは、終わりではなく、闘技場での競技の始まりにすぎません。たとえていえば、それは目的地ではなく、出発点にすぎないのです。実際、競技者は服を脱いだときに勝利を収めるのではありません。彼は戦いを始めるために服を脱ぐからです。競技者は、なすべき戦いを終えた後に、初めて勝利者の栄冠を与えられるに値するのです」(『書簡24――スルピキウス・セウェルス宛て』:Epistulae XXIV, 7)。
 修徳と神のことばと並んで行われたのは、愛のわざです。修道共同体の中では貧しい人も一緒に暮らしていました。パウリノは貧しい人に施しを与えるだけではありませんでした。彼は貧しい人を、その人があたかもキリストご自身であるかのように迎え入れました。パウリノは修道院の一部に貧しい人のための場を設けました。このことによって、彼には自分が与えるのでなく、与えられているように思われました。寄付を受けることと、寄付を受けた人が感謝の祈りをささげることの間で、ささげものの交換が行われたからです。パウリノは貧しい人を自分の「守護聖人」(『書簡13――パンマキウス宛て』:Epistulae XIII, 11参照)と呼びました。また彼は、貧しい人が下の階に泊まっているのを見て、貧しい人の祈りは自分の家の基(もとい)だと、よくいいました(『歌謡21』:Carmina XXI, 393-394参照)。
 聖パウリノは神学的論考を著しませんでした。しかし、その詩と、内容豊かな書簡は、生きた神学に満ち、神のことばにあふれ、絶えず光のように生活のすみずみまでも照らし出します。とりわけパウリノは、教会を一致の神秘としてとらえました。パウリノは、何よりも霊的友愛を際立ったしかたで実践することを通して、人との交わりを示しました。この点でパウリノは真の教師となりました。彼は自らの生涯を、さまざまな選ばれた霊魂の交わる十字路としたからです。その中には、トゥールのマルチノ(Martinus Turonensis 336頃〔または316/317〕-397年)からヒエロニモ(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)まで、アンブロジオからアウグスチヌスまで、ボルドーのデルフィヌスからレメシアナのニケタスまで、ルーアンのウィクトリキウス(Victoricius 340頃-410年以前)からアクイレイアのルフィヌス(Tyrannius Rufinus 345頃-410/411年)まで、パンマキウス(Pammachius 410年頃没)からスルピキウス・セウェルス(Sulpicius Severus 360頃-420年頃)までが含まれ、さらにこのほかにも有名な多くの人々がいます。アウグスチヌスに宛てて書かれた内容豊かな書簡は、このような雰囲気から生まれました。一つひとつの書簡の内容を離れて印象的なのは、ノラの聖パウリノが温かい心で自分の友愛を表していることです。この友愛は、聖霊によって生かされたキリストの唯一のからだの表れです。パウリノとアウグスチヌスという二人の友人が交わした往復書簡の冒頭の、意味深い一節を引用します。「わたしたちは遠く離れていても互いのそばにおり、会っていなくても、互いのことを知っています。そうだとしても、驚くべきではありません。なぜなら、わたしたちは唯一のからだの部分であり、唯一の頭をもち、唯一の恵みに満たされ、唯一のパンによって生かされ、唯一の道を歩み、同じ家に住んでいるからです」(『書簡6』:Epistulae 6, 2)。おわかりのように、これはキリスト信者であるとはどういうことかを記した、すばらしい文章です。キリスト信者は、キリストのからだであり、教会の交わりの中で生きます。現代の神学は、まさにこの交わりという概念のうちに、教会の神秘に近づくための鍵を見いだしました。ノラの聖パウリノのあかしは、わたしたちが教会とは何かを考える上での助けとなります。第二バチカン公会議は、教会が神との深い一致の神秘であり、それゆえわたしたち皆の一致の、要するに全人類の一致の神秘であることを示しました(『教会憲章(Lumen gentium)』1参照)。このような希望をもって、わたしは皆様がよい待降節を過ごされることを祈ります。

PAGE TOP