教皇ベネディクト十六世の2007年12月16日の「お告げの祈り」のことば 主において喜びなさい

教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日の12月16日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイ […]

教皇ベネディクト十六世は、待降節第三主日の12月16日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は、自宅の馬小屋に飾る幼子イエスの像を祝福してもらうために集まった子どもたちに、祝福を与えました。サンピエトロ広場では、14日(金)午後4時から、バチカン市国政庁長官のジョヴァンニ・ラヨロ枢機卿の司式で、クリスマスツリーの点灯が行われました。今年のツリーは北イタリアのボルツァーノ県から贈られたもので、高さは26メートルあります。ツリーの横では、24日の降誕祭の晩に公開される馬小屋の準備が進んでいます。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 「主において常に喜びなさい(Gaudete in Domino semper)」(フィリピ4・4)。この聖パウロのことばで待降節第三主日のミサは始まります。それで、待降節第三主日は「喜び(gaudete)」の主日と呼ばれます。使徒パウロはキリスト信者に喜びなさいと勧めます。それは、主が到来するからです。主が確かに、遅れることなく、栄光のうちに再臨されるからです。教会はこの招きを、降誕祭を準備する中で行います。そして教会はいつもベツレヘムにそのまなざしを向けます。実際、教会は確実な希望をもってキリストの第二の到来を待ち望みます。なぜなら、教会はキリストの最初の到来を知っているからです。ベツレヘムの神秘は、わたしたちとともにおられる神をわたしたちに示しました。神はわたしたちのそばにおられます。神がわたしたちのそばにいてくださるのは、たんに空間的・時間的な意味ではありません。神はわたしたちに近づかれます。なぜなら、神はいわばわたしたちの人間性と「結婚」されたからです。神はわたしたちの状態を身に負われました。そのために神は、罪を除いて、完全にわたしたちと同じようになることを選びました。それはわたしたちを神と同じようなものとするためです。それゆえ、キリスト信者の喜びは、この確信からほとばしり出ます。神は近くにおられます。わたしとともにおられます。そしてわたしたちとともにおられます。喜びのときも、苦しみのときも。健康なときも、病気のときも。友として、また忠実な伴侶として。この喜びは、試練のときも、苦しみのときも、失われることがありません。この喜びは、表面的な次元では続きません。しかし、神に自分をささげ、神に信頼する人の心の奥底に変わらずにとどまります。
 人はこう問いかけるかもしれません。でも、このような喜びは現代でもありうるだろうか。答えは、喜んで自分の人生を他の人のためにささげた、すべての時代の、あらゆる社会的身分の人の生涯によって与えられます。コルカタの福者マザー・テレサ(1910-1997年)は、現代において、福音に基づくまことの喜びを、忘れることのできないしかたであかししているのではないでしょうか。マザー・テレサは日々、悲惨と、見捨てられた人と、死と向き合いながら生きました。彼女の魂は信仰の暗夜の試練を知っていました。にもかかわらず、彼女はすべての人に神のほほえみを与えました。彼女はある本の中でこう述べています。「わたしたちは神がおられる楽園に行くことを待ち焦がれています。けれども、わたしたちは今、ここから、楽園にいることができます。神のように愛すること。神のように人を助けること。神のように与えること。神のように仕えること。神とともにいる幸いとは、このことなのです」(『自分を人に与える喜び』:La gioia di darsi agli altri, Ed. Paoline, 1987, p. 143)。そうです。喜びは、小さな人、貧しい人への奉仕に自分をささげる人の心に生まれます。このように愛する人の中に神は住まわれます。そして心は喜びに満たされます。しかし、偶像を喜びとする、間違った道を歩むなら、イエスが述べる喜びを見いだすことはきわめて困難です。残念ながら、これが神よりも個人的な幸福を優先する文化が示す道です。このような精神は、いかなる代償を払っても快楽を追求する態度や、逃避としての薬物使用の広まりにおいて象徴的に表されます。薬物は人工的な楽園への逃避です。しかし、こうした楽園はやがてまったくの幻想であることがわかります。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。人は降誕祭の季節にも、間違った道を歩むことが可能です。こうして人は、まことの祭を、キリストに心を開くことのない祭と引き換えにします。おとめマリアの助けによって、すべてのキリスト信者と、神を探し求めるすべての人が、ベツレヘムに着いて、幼子と出会うことができますように。幼子はわたしたちのために生まれ、すべての人に救いと幸福をもたらすかただからです。

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