教皇ベネディクト十六世の121回目の一般謁見演説 降誕祭を前にして

12月19日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の121回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、間近に迫った降誕祭について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書1章14、16節が朗読されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 偉大な降誕祭が近づくこの時期に、典礼はわたしたちが準備に励むように促します。そのために典礼は旧約と新約から多くの聖書箇所を示します。これらの箇所は、この毎年行われる祭日の意味と価値によく注意を向けるよう刺激を与えてくれます。まず降誕祭は、神の独り子の誕生という、信じがたい奇跡の記念です。神の独り子はベツレヘムの洞窟でおとめマリアから生まれました。また降誕祭は、わたしたちが目覚めて祈りながら、わたしたちのあがない主を待ち望むように勧めます。あがない主は終わりの日に「生者と死者を裁くために来られます」。もしかすると現代人も、わたしたちキリスト信者でさえも、本当に裁き主が来られることを待ち望んでいます。しかしながら、わたしたちは皆、正義が行われることを待ち望んでいます。わたしたちは世界の中で多くの不正を目にしています。家庭や、隣人というわたしたちの小さな世界でも、また国家や社会という大きな世界でもそうです。そしてわたしたちは正義が行われることを待望します。正義は抽象的な概念です。正義は実行されるものです。わたしたちは、正義を行うことのできるかたが具体的な姿で到来することを待ち望んでいます。そのためにわたしたちはこう祈ります。「裁き主である主イエス・キリスト、来てください。み心のままに来てください」。主は、どのように世に来て、正義を行うかをご存じです。わたしたちは主に祈ります。「裁き主である主よ、こたえてください。あなたは世にまことの正義をもたらすかただからです」。わたしたちは正義が行われることを待ち望んでいます。しかし、正義が行われることだけが、隣人が必要としていることの表現ではありえません。キリスト教的な意味で正義を待望するとは、何よりもまず、裁き主が見ておられる前で、裁き主の基準に従って生き始めることを意味します。すなわち、裁き主のみ前で、自分たちの生活の中で正義を実現しながら生き始めることを意味します。このようにして、裁き主のみ前に身を置いて、正義を実現しながら、わたしたちは本当の正義を待望するのです。これが待降節の意味です。待降節とは、目覚めていることです。待降節に目覚めているとは、裁き主が見ておられる前で生き、自分たちと世界を裁きのために準備することです。それゆえ、裁き主である神が見ておられる前で生きることによって、わたしたちは世を御子の到来に向けて開くことができます。「来るべき主」を迎え入れるために心の準備をすることができます。2000年前の夜、ベツレヘムの洞窟で羊飼いたちが拝んだ幼子は、日常生活の中でわたしたちをも訪れてくださいます。わたしたちも神の国に向けて歩む旅人だからです。信じる者は、待望することによって、全人類の希望を語る者となります。人類は正義を渇き求めています。だから人類は、しばしば無自覚のうちにも神を待ち望んでいます。神だけがわたしたちに与えることのできる救いを待ち望んでいます。わたしたちキリスト信者にとって、この待望を特徴づけるのは、熱心な祈りです。降誕前の八日間でわたしたちに示される意味深い祈願の中にとくに見られるとおりです。この祈願は、ミサの福音朗読の中でも、教会の祈りの「福音の歌」の前にも唱えられます。
 知恵であるかた、正義の太陽、わたしたちとともにおられる神の到来を願うこれらの祈願は皆、諸国の民が待ち望むかたへの祈りを含みます。このかたの到来を早めるためです。約束された救い主の誕生というたまものが与えられるよう祈り求めることは、道を準備するよう努めることも意味します。すなわち、わたしたちの周りだけでなく、何よりも自分の心のうちに、主が住まうのにふさわしい場所を用意することを意味します。それゆえ、福音書記者ヨハネに導かれながら、この時期、思いと心を永遠のみことばに向けるように努めようではありませんか。ロゴスであるみことばは、肉となって、わたしたちは皆、このかたの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けました(ヨハネ1・14、16参照)。わたしたちは、造り主であるロゴス(みことば)を、世を造られたみことばを、幼子として来られたみことばを信じます。この信仰と偉大な希望は、現代、わたしたちが毎日、公的また私的に経験する生活の現実とかけ離れたものであるように思われます。この真理はあまりにも偉大であるように思われます。わたしたちは可能なこと、少なくとも可能と思われることだけで満足します。けれどもそうするうちに世界はますます混乱し、暴力に満ちたものとなっています。わたしたちは毎日このことを目のあたりにしています。こうして神の光、すなわち真理の光は消えます。生活は暗闇となり、方向を示すものもありません。
 だからこそ、わたしたちが本当の信仰者であることが重要です。わたしたちは信じる者として、力強く、自らの生活を通して、救いの神秘をあらためて述べます。この救いは、キリストの降誕を祝うときに到来します。ベツレヘムで、わたしたちの生活を照らす光が世に示されました。わたしたちの人間性を完成へと導く道が、わたしたちに現されました。神が人となられたことを認めなければ、降誕祭を祝うことに何の意味があるでしょうか。それは空しい祝いとなります。わたしたちキリスト信者は、何よりもまず、深い心からの確信をもって、キリストの降誕の真理をあらためて述べなければなりません。それは、これまで与えられたことのないたまものが与えられたという認識を、すべての人にあかしするためです。このたまものは、わたしたちだけでなく、すべての人を豊かにするからです。そこから福音宣教の務めが生まれます。福音宣教とは、この「よい知らせ(エウ・アンゲリオン)」を伝えることです。このことを教皇庁教理省の最近の文書『教理についての覚書――福音宣教のいくつかの側面について』も述べています。わたしはこの文書を、皆様が考察し、個人としても共同体としても深めてくださるように、皆様の手にお渡ししたいと思います。
 親愛なる友人の皆様。間近に迫る降誕祭を準備するこの期間、平和と救いと正義への希望が実現しますようにと、教会はますます祈ります。これらのものを今日も世界は緊急に必要としているからです。わたしたちは神に願います。愛の力が暴力に打ち勝ちますように。対立は和解に変わりますように。支配への欲望は、ゆるしと正義と平和への望みに造り変えられますように。わたしたちがこの時期に交し合う、いつくしみと愛の願いが、わたしたちの日常生活のあらゆる場に届きますように。わたしたちの心に平安がありますように。わたしたちが神の恵みのわざに心を開くことができるために。家庭が平和の住まいとなりますように。そして家族が、馬小屋と、ライトで飾られたツリーの前で、心を一つにして降誕祭を過ごすことができますように。古くからあるものと新しいものを含めた貧困、わたしたち皆が分かち合うよう招かれている共通善――これらのことに対する感覚を深めるために、降誕祭から生まれる連帯ともてなしのメッセージが役立ちますように。家族の共同体に属するすべての人、とくに子ども、高齢者、弱い立場の人が、降誕祭を温かく感じることができますように。このぬくもりが、一年のすべての日々にゆきわたりますように。
 すべての人が降誕祭を平和と喜びを祝う日とすることができますように。この喜びは、平和の君である救い主が生まれた喜びです。羊飼いたちと同じように、わたしたちもベツレヘムへと急いで行きます。聖夜の真夜中、わたしたちもマリアとヨセフとともに、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2・12、16)を仰ぎ見ることができます。主に願おうではありませんか。わたしたちの心を開いてください。わたしたちが主の降誕の神秘に入ることができますように。マリアはおとめの胎を神のみことばにささげ、母の手に抱かれた幼子を仰ぎ見、世のあがない主であるかたにすべての人をゆだね続けます。マリアの助けによって、わたしたちが、来る降誕祭を、キリストをより深く知り、愛するための機会とすることができますように。この願いを、わたしはここに来ておられる皆様と、皆様のご家族、そして皆様の愛するかたがたにささげます。 
 皆様にとってよい降誕祭となりますように。

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