教皇ベネディクト十六世、降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2007.12.25)

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます […]

12月25日(月)正午に、サンピエトロ大聖堂バルコニーから、教皇ベネディクト十六世は、降誕祭のメッセージを発表しました。メッセージは「ローマと全世界へ」(ウルビ・エト・オルビ)と呼ばれ、毎年、降誕祭と復活祭に発表されます。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
メッセージの発表の後、63か国語による祝福が述べられました。教皇は51番目に日本語で次のように述べました。「クリスマスと新年おめでとうございます」。最後の祝福は、メッセージの中でも引用されていることばを用いて、ラテン語で行われました。「偉大な光がきょう地上に下った」(Hodie descendit lux magna super terram!)。


 「偉大な光がきょう地上に下り、
 聖なるこの日はわたしたちを照らした。
 諸国の民は来て主を礼拝せよ」(主の降誕〔日中のミサ〕アレルヤ唱)。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。「聖なるこの日はわたしたちを照らした」。偉大な希望の日である今日、人類の救い主が生まれました。普通、幼子の誕生は、不安を抱きながら誕生を待ち望む人々に光をもたらします。イエスがベツレヘムの馬小屋で生まれたとき、「偉大な光」が地上に現れました。偉大な希望が、イエスを待ち望んでいた人々の心に生まれました。今日の降誕祭の日中のミサの典礼で「偉大な光が」と歌われるとおりです。もちろんそれは、この世の意味で「偉大」ではありませんでした。この光を最初に見たのは、マリアとヨセフと幾人かの羊飼いたち、そして後に占星術の学者たちと、年老いたシメオンと女預言者アンナだけだったからです。これらは神があらかじめ選んだ人々でした。けれども、聖夜の密やかな静けさの中で、消えることのない輝かしい光がすべての人を照らしました。幸いをもたらす偉大な希望が世に来ました。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1・14)。
 聖ヨハネはいいます。「神は光であり、神には闇がまったくない」(一ヨハネ1・5)。創世記にはこう書かれています。世界が創造されたとき「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。「神はいわれた。『光あれ』。こうして、光があった」(創世記1・2-3)。造り主である神のことばは、いのちを生み出す光です。万物は「みことば(ロゴス)」によって成りました。成ったもので、「みことば」によらずに成ったものは何一つありませんでした(ヨハネ1・3参照)。だからすべての被造物は基本的によいもので、神の刻印、すなわち神の光の火花をもっています。にもかかわらず、イエスがおとめマリアから生まれたとき、光そのものであるかたが世に来られました。信条はこの光を「神よりの神、光よりの光」といいます。神はイエスにおいて、ご自身であり続けながら、ご自身でないものを受け取りました。「全能の神は、幼子のからだに入りながら、宇宙を統治し続けられます」(アウグスチヌス『説教184――降誕について』:Sermo 184, 1参照)。人間の造り主は、世に平和をもたらすために人となりました。だから降誕祭の夜、天使の群れは歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」(ルカ2・14)。
 「偉大な光がきょう地上に下った」。キリストの光は平和をもたらします。主の降誕の夜半のミサの感謝の祭儀は次の賛歌で始まります。「まことの平和が今日天から地上に下った」(入祭唱)。実際、キリストのうちに示された「偉大な」光だけが、人々に「まことの」平和を与えることができます。だからすべての人は世々にわたってこの「まことの」平和を受け入れるよう招かれます。それは、ベツレヘムでわたしたちの一人となられた神を受け入れるためです。
 これこそが降誕祭です。歴史的な出来事であり、愛の神秘である降誕祭は、2千年以上にわたって、すべての時代、すべての場所の人々に語りかけてきました。この聖なる日に、キリストの「偉大な光」が輝いて、平和をもたらします。もちろん、この「偉大な光」を認め、受け入れるには、信仰と謙遜が必要です。それはマリアの謙遜です。マリアは主のことばを信じ、飼い葉桶にかがんで、初めてその胎の実をあがめたからです。それはヨセフの謙遜です。正しい人ヨセフは、勇気をもって信じ、自分の名誉を守ることよりも神に従うことを選んだからです。それは羊飼いたちの謙遜です。貧しい、名もない羊飼いたちは、天使のお告げを受けて、馬小屋に急いで行きました。そしてそこで、幼子を見つけ、驚きに満たされながら幼子を拝み、神を賛美しました(ルカ2・15-20参照)。小さい者、心の貧しい者――この人々こそが、昨日も今日も、降誕祭の主人公です。この人々こそが常に神の歴史の主人公です。この人々が、正義と愛と平和に基づく神の国をうむことなく築きます。
 静かな夜、ベツレヘムで、イエスは生まれ、優しく受け入れられました。そして今、あがないをもたらすイエスの誕生の喜ばしい知らせが響きわたり続ける、この現代の降誕祭の日に、誰がこのイエスに進んで心の扉を開くでしょうか。現代の皆様。キリストはわたしたちのところにも来て、光をもたらしてくださいます。わたしたちのところにも来て、平和を与えてくださいます。けれども誰が、心から目を覚まして祈りながら、疑いと不確実さに満ちた夜に目覚めているでしょうか。誰が信仰の炎をともし続けながら、新しい日の夜明けを待ち望んでいるでしょうか。誰がイエスのことばに耳を傾ける時間をもち、心を引きつけるイエスの愛に包まれるでしょうか。そうです。イエスの平和の知らせはすべての人のためのものです。イエスは、確かな希望と救いとしてすべての人にご自身をささげるために来られたのです。
 最後に、すべての人を照らすために来たキリストの光が輝いて、貧困と不正と戦争の暗闇の中に生きる多くの人々を慰めてくださいますように。安全な生活、健康、教育、安定した雇用、市民権・参政権の完全な行使、あらゆる圧政からの解放と、人間の人格を損なうあらゆる状態からの保護――こうしたことがらへの正当な望みを多くの人々は今なお否定されています。すべての人々に前例を見ない苦しみをもたらしている、流血の武力紛争、テロ、あらゆる種類の暴力の犠牲となるのは、とくに子ども、女性、高齢者などのもっとも弱い立場の人々です。また、民族的、宗教的、政治的な緊張、政情不安、抗争、対立、不正そして差別は、多くの国の内的構造を引き裂き、国際関係を悪化させています。世界中で移住者、難民、避難民の数がますます増加しています。その原因は度重なる自然災害であり、自然災害はしばしば憂慮すべき環境破壊からもたらされます。
 この平和の日に、わたしの思いはとくに武器の轟音が鳴り響く地域に向かいます。すなわち、苦悩のうちにあるダルフール地域、ソマリア、コンゴ民主共和国北部、エリトリアとエチオピアの国境地域。中東全域、とくにイラク、レバノン、聖地。アフガニスタン、パキスタン、スリランカ。バルカン半島地域。そして残念ながらしばしば忘れられている、多くの危機的状態にある他の多くの地域です。幼子イエスが、試練のうちにある人々を慰め、政治指導者たちに人道的で公正で恒久的な解決を探し、見いだすための知恵と勇気を与えてくださいますように。現代世界に特有の、意味と価値への渇き。全人類の生活の特徴である、幸福と平和の追求。貧しい人々の望み――真の神にして真の人であるキリストが、そのご降誕によって、これらのことにこたえてくださいます。個人も国家も、キリストを認め、受け入れることを恐れることはありません。キリストによって、「偉大な光」が人類をすみずみまで照らします。キリストによって、沈むことのない「聖なるこの日」が始まります。この降誕祭が、すべての人にとって真の意味で喜びと希望と平和の日になりますように。
 「諸国の民は来て主を礼拝せよ」。すべての大陸の兄弟姉妹の皆様。マリア、ヨセフ、羊飼いたち、また、占星術の学者をはじめとして、その後の何世紀にわたって主の降誕の神秘を受け入れ、生まれたばかりの幼子をへりくだって拝む、数えきれない人々の群れとともに、わたしたちもこの日の光をすべての地に広めようではありませんか。この光がわたしたちの心に射し込み、わたしたちの家を照らし、温め、わたしたちの国に落ち着きと希望をもたらし、世界に平和を与えてくださいますように。これが、わたしのことばに耳を傾けてくださる皆様に対するわたしの願いです。この願いは、幼子イエスに対するつつましく信頼を込めた祈りとなります。どうか幼子イエスの光が皆様の生活からすべての闇を追い払い、皆様を愛と平和で満たしてくださいますように。キリストのうちに憐れみ深いみ顔を輝かせてくださった主が、皆様を主の幸いで満たし、皆様を主のいつくしみの使者としてくださいますように。降誕祭おめでとうございます。

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