教皇ベネディクト十六世の122回目の一般謁見演説 神の母マリア

1月2日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の122回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、新年にあたって、「神の母マリア」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ガラテヤの信徒ヘの手紙4章4-5節が朗読されました。謁見には7,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 民数記に記された、古代の祝福のことばは次のように述べます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主がみ顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」(民数記6・24-26)。1年の最初の日である昨日、典礼で唱えられたこのことばをもって、わたしはここにおられる皆様と、降誕節の間、温かい霊的な気遣いを示すしるしを送ってくださったかたがたに、心からのごあいさつを申し上げます。
 昨日わたしたちは、神の母聖マリアの祭日を祝いました。「神の母(テオトコス)」という称号が正式にマリアに与えられたのは、5世紀、正確には431年のエフェソ公会議によってです。しかしこの称号はすでに3世紀からキリスト信者の民の信心の中で述べられています。それは当時、キリストの位格をめぐる議論との関連で用いられました。この称号によって、キリストは神でありながら、本当にマリアから人間として生まれたことが強調されました。こうしてキリストにおける真の神と真の人との一致が保たれました。実際に、議論はマリアについてのものだったように見えますが、本質的に目を向けられていたのは御子でした。ある教父たちは、キリストの人間性を擁護するために、もっと和らげたことばを用いようとしました。「テオトコス」という称号の代わりに、彼らは「クリストトコス(キリストの母)」という称号を提案したのです。しかしながら、この称号は、適切にも、キリストにおける人間性と神性の完全な一致という教理を危うくするものと考えられました。そのため、431年のエフェソ公会議における広範な議論の後、神の子の位格における神性と人間性という2つの本性の一致と(DS 250参照)、おとめマリアに「テオトコス(神の母)」という称号を与えることの正当性(ibid. 251)とが正式に確認されました。
 この公会議の後、マリア信心の真の意味での爆発的な広まりが見られるようになり、神の母にささげられた多くの教会堂が建てられました。その中で第一に際立っているのは、ローマにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂です。神の母マリアに関する教理はさらに451年のカルケドン公会議であらためて確認されました。この公会議において、キリストは「真の神であり、真の人間である。・・・・人間性においては・・・・われわれのため、またわれわれの救いのために、神の母マリアから生まれた」(DS 301)と宣言されました。ご存じのように、第二バチカン公会議は、マリアについての教理を『教会に関する教義憲章』(Lumen gentium)第8章にまとめ、マリアが神の母であることをあらためて確認しました。この第8章の標題は「キリストと教会の秘義の中における神の母・おとめ聖マリアについて」です。
 それゆえ、降誕祭と深く結ばれた「神の母」という称号は、信者の共同体が常に聖なるおとめをたたえるために用いてきた基本的な呼び名であるといえます。この称号は救いの歴史におけるマリアの使命をよく言い表しています。聖母に与えられた他のすべての称号は、あがない主の母となるという聖母の召命に基づいています。あがない主の母は、救いの計画を実現するために神によって選ばれた被造物としての人間であり、神のことばの受肉という偉大な神秘の中心に位置づけられます。降誕節の間、わたしたちは馬小屋に示された主の降誕の様子を立ち止まって仰ぎ見ます。この光景の中心にいるのが、おとめである母です。このおとめである母は、救い主を拝みに来た人々に、幼子イエスを示して仰ぎ見させます。救い主を拝みに来た人々とは、羊飼い、ベツレヘムの貧しい民、東方から来た占星術の学者たちです。その後、2月2日に祝う主の奉献の祝日に、老人シメオンと女預言者アンナが幼子イエスを母であるかたの手から受け取って、拝みます。キリスト信者の民の信心は常に、イエスの誕生とマリアが神の母であることを、神のことばの受肉という同じ神秘の2つの側面と考えました。ですから、主の降誕が過去の出来事と考えられることはありませんでした。わたしたちは、羊飼い、占星術の学者たち、シメオンとアンナと「同時代の人間」です。わたしたちは彼らとともに歩みながら、喜びに満たされます。神はわたしたちとともにいる神であることを望まれたからです。そして、神には母がおり、この母はわたしたちの母だからです。
 「神の母」という称号から、教会がマリアをたたえるすべての他の称号は由来します。しかし、基本的な称号は「神の母」です。「無原罪の御宿り」の特典を考えてみたいと思います。「無原罪の御宿り」とは、受胎のときから罪を免れているということです。マリアはあらゆる罪の汚れから守られていました。それは、彼女があがない主の母となるべきかただったからです。同じことが「被昇天」という称号にもいえます。救い主を産んだかたが、原罪から来る腐敗に服することはありえませんでした。そしてわたしたちは知っています。これらすべての特典は、マリアをわたしたちから遠い存在とするのではなく、むしろ反対にマリアをわたしたちに近づけます。実際、聖母は、完全な形で神とともにおられるので、わたしたちのもっとも近くにおられ、母また姉妹としてわたしたちを助けてくださいます。マリアが信者の共同体の中で占める、唯一のかけがえのない位置も、このあがない主の母としての基本的な召命に由来します。だからこそマリアは、キリストの神秘的なからだである教会の母でもあるのです。それゆえにこそ、適切にも、第二バチカン公会議の会期中の1964年11月21日に、パウロ六世はマリアに「教会の母」という称号を正式に与えたのです。
 教会の母だからこそ、おとめマリアは、わたしたち一人ひとりの母でもあります。わたしたちはキリストの神秘的なからだの部分だからです。イエスは十字架上で、母であるかたをすべての弟子にゆだねると同時に、すべての弟子を母であるかたの愛にゆだねました。福音書記者ヨハネはその短い意味深い記事を次のことばで結びます。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19・27)。これは「エイス・タ・イディア」というギリシア語テキストをイタリア語に訳したものです。弟子はイエスの母を、自分の現実、自分の存在に受け入れました。こうして母であるかたは弟子のいのちの一部となり、二つのいのちは浸透し合います。このように自分の生活に(エイス・タ・イディア)母であるかたを受け入れることが、主の遺言だったのです。それゆえイエスは、救い主としての使命を完成する最高の瞬間に、弟子の一人ひとりに、貴い遺産として、ご自分の母であるおとめマリアを残したのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。1年の最初のこの時期に、わたしたちは、教会生活とわたしたちの個人の生活の中にマリアがともにおられることの重要性を注意深く考えるよう招かれています。自分をマリアにゆだねようではありませんか。主がわたしたちが生きるように与えてくださったこの新しい時を歩むわたしたちをマリアが導いてくださいますように。マリアの助けによって、わたしたちが御子の真の友となり、世において勇気をもって神の国を築く者となることができますように。神の国とは、光と真理の国です。皆様にとってよい年でありますように。この2008年の最初の一般謁見にあたり、わたしはこの祝福を、ここにおられる皆様と、皆様の愛する人々の上に送りたいと思います。おとめマリアのしるしのもとに始まった新しい年が、わたしたちにマリアがともにいてくださることをいっそう生き生きと感じさせてくれますように。こうしてわたしたちが、おとめマリアのご保護によって支えられ、慰められながら、新しい目で御子イエスのみ顔を仰ぎ見、いつくしみの道を力強く歩んでいくことができますように。
 あらためて、皆様にとってよい年となりますように祈ります。
 
略号
DS H. Denzinger-A. Schönmetzer, Enchiridion symbolorum definitionum et declarationum de rebus fidei et morum

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